第22話

 水平線上に横たわる雪雲は歪な形をなし、そこに太陽の残り火が当てられるとまるで赤黒い痣のようだった。


 あまりにも不吉めいた色彩を目の当たりにして、あなたは瞳の奥に鈍い疼きを感じた。涙がうっすらと滲んでいた。寒さのためではない。目の奥で燃え上がる、耐えがたいほどに情熱的で絶望的な幻にあなたは酔っていた。


 その幻の正体が彼であるのか、あるいは憂希であるのか、あなたには判然としなかった。確かなのは、あなたが呼ばれているということだけだ。吹きすさぶ風の音に紛れて、あなたを呼ぶ声。そのか弱い導きにいざなわれて、足は入り江の方角へと動いていた。


 車を使えば楽なものを、あなたは敢えて徒歩で向かっていた。心の準備が整う前に、あの場所へ到達してしまうことがおそろしかったのだ。何かの始まりか、あるいは終わりか。いずれにしてもあなたはこれから起こるであろうことをおそれ、しかしながら心のどこかで強く望んでもいた。


 あなたの心はいつもそうした板挟みのなかにあってすり減っていた。しかもあなたは、その喪失を忌避するどころか待ち望んでいる感さえあった。絶え間ない悩みのなかがあなたの居場所であり、心が欠損していく感覚こそが心を満たしていた。彼は対照的に、失うことを強烈におそれているようだった。あなたからほかの男の臭いを嗅ぎつけると、彼は表面上は何でもないふうを装いながら、その実、嫉妬の炎をめらめらと燃やし、欲望の爪であなたの腕や背中を引っ掻くのだ。そうやってあなたを必死に求める彼の身体からは、しかし常にほかの女の臭いがして、その臭いを嗅ぐたびにあなたは倒錯的な快感を催した。


 彼があなたを追いかけてきてくれなかったときも、あなたは本気で怒っていたわけではなかったし、彼を本気で殺そうとしたわけでもなかった。来てくれなかったことへの怒りと同じくらい、安堵のような気持ちがあったのを、あなたはいまもおぼえている。


 あなたがたは確かに互いを愛していた。しかし、愛の先に何を見出すかという点において、価値観の決定的な相違があった。


 では、憂希はどうか。あの少年は、予め失った状態で育ってきたがゆえに、喪失をおそれていないように思われた。昨夜、あなたのなかに潜む彼を殺せなかったと悟ったとき、憂希は声を荒らげはしたものの、彼のように嫉妬に苛まれるということはなかった。その証拠に、耐えがたい喪失を前にしてなお、憂希は自らの愛を証明してみせると言ってのけたのだ。あのとき憂希が見せた瞳の輝きは、間違いなくあなたと同じ、喪失を愛することのできる人間のものだった。


 あなたは、憂希が彼に似ていると思いこんでいた。しかしそうではなかった。あの少年は、ほかでもないあなたに似ていたのだ。


 太陽がちょうど沈みきったころ、あなたは入り江を囲う森のあたりに到達した。夜の闇よりもなお暗いその森を、あなたはほとんど手探りで進まなければならなかった。歩を進めるごとに、冬の透きとおった香りの奥から、生々しい海の臭いが強くかおった。


 彼について誰かに語るとき、いつも使っていた言葉がふいに思い出された。


「幻のような魂を持った人なの。まばたきした瞬間に、立ち消えてしまいそうな……」

「……それでも、私と彼は結ばれない運命にあるの」


 そして、それらの言葉がすべて喪失を前提としていることに、あなたはこのときようやく気がついた。

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