第21話

 あなたと憂希のあいだで行われようとしている証明。それを邪魔しようとするかのように立ち上がる記憶がある。


 その日、些細なきっかけから彼と言い争いをしてホテルを飛び出したあなたは、日盛りの海沿いを入り江の方角へと走っていた。いったいどのようなきっかけから起こった喧嘩なのか、いまとなっては思い出すこともできないが、ふだんなら喧嘩といえども冗談めいたリズムで交わされる言葉の輪郭が、このときは徐々に研ぎ澄まされていくおそろしさがあった。


「きみはその顔で男たちを騙すんだ。ぼくだって騙された」


 罵りあいの過激さに耐えきれず、涙ぐむあなたを指さして彼が言った。


「ぼくたちは間違ったんだ」

「じゃあ、私がぜんぶ悪いってわけね。あなたの知らないところで、あなたのためにたくさん傷ついたのも、ぜんぶ自業自得ってことなのね」


 そう吐き捨てて部屋を出て行った手前、あなたは彼に運転してもらうわけにもいかず、入り江までの長い道のりを走っていた。この土地には珍しく台風が接近しており、今夜から明日にかけて嵐になるという予報だった。太陽は最後のあがきでもするかのようにぎらぎらと燃え盛り、観光客たちも天気がいい内に遊び尽くしておこうというつもりなのか、麓の海水浴場には浮き足だった空気が蓋をして熱気を封じこめていた。


 あなたは賑やかな海水浴場をとおりすぎて、ひと気のない入り江に向かって走っている。そのことがひどく惨めに感じられた。汗を吸ったワンピースが背中にべっとりとまとわりついて不快感を誘い、それが苛立ちを助長させた。あなたがたはときおり、このような喧嘩を繰り広げることがあって、いつもならばどちらかが逃げ去るのをもういっぽうが追いかけて引き留めるのだったが、今回彼は追いかけてこなかった。


 入り江の砂浜にへたりこんだあなたは、空の最も高い位置に浮かぶ太陽を力ない目で見上げた。酷暑に熱せられた風が爆ぜて、嵐の予兆のように吹き荒れていた。あなたは乱れた髪を雑にまとめあげると、手に握り締めていた煙草の箱から最後の一本を取りだし、よく磨き上げられた銀のライターで火をつけた。それは部屋を飛び出す直前に彼から取り上げたもので、あなたは咳きこみながら半分ほど吸うと、吸い殻を砂に埋め、ライターを海に放り投げた。


 脳が萎縮するような感覚とともに視界が歪み、あなたは軽い熱中症の患者の気分で砂浜に寝そべった。真夏の日射しが白い肌をじりじりと灼いていく、そのささやかな痛みが何か特別なもののように思えてならなかった。


 目を閉じると、最後に見た彼の顔が瞼の裏に浮かんだ。あのとき、彼はわずかに後悔の表情を見せ、それをすぐさま皮肉めいた笑みによって打ち消した。あれはいったい何に対して向けられた後悔だったのか。あなたに心にもない言葉を放ってしまったことへの後悔だったのか。それとも、心の底で思っていたことを口走ったことへの後悔だったのか。考えれば考えるほど、あなたの心はひどく掻き乱された。彼の後悔について考えることは、とりもなおさずあなた自身の後悔について考えることもあった。


「私たちは間違ったの」


 その瞬間、砂浜が砂時計の砂のように滑り落ち、身体が地の底に吸いこまれていく感覚が起こった。あなたは耐えがたい重力に肉体が押し潰される光景を想像しながら、砂のうえで身悶えた。


 結局、日が暮れるまで待っても彼は入り江にやって来ず、あなたは砂にまみれた身体を引きずってホテルまで戻ることとなった。彼は暗い寝室で身体を丸めて眠っており、あなたはその姿に生まれるまえの胎児の弱さを見た。あなたはゆっくりとベッドに近づき、彼に覆い被さると、細い首を両手で強く締め上げた。なぜそうしようと思ったのかわからない。ただ、そうしなければならないのだと思った。


 彼はすぐさま目を覚まし、あなたの腕を掴んだ。が、引き離そうとはしなかった。それどころか、あなたのほうをこそ逃げられないようにするかのごとく、両腕を固定し、扼殺を確実なものにしようとした。愛している、という言葉がふいに口から漏れた。これまでに何度も口にしてきた言葉。だが、このときほど重く響いたことはない。譫言のようにその言葉を繰り返し、両手の力が尽きるまで彼の首を絞め続けたあなたは、やがて力尽き、砂の像のように崩れ落ちた。外ではいつの間にか雨が降り始め、無数の雨粒が窓を叩いていた。あなたは青ざめた彼の顔を見つめ、わずかに吐息を漏らす唇を塞いだ。


 このとき、あなたは確かに彼を愛していた。あなたと同じ目をして、同じ柔らかさの唇を持つ彼。たったひとりの弟のことを。


 あなたがたは同じ日、同じときに、同じ女の子宮から生まれた。


 あなたがたは、常にともにあった。

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