第19話

 冴えわたるような沈黙ののち、憂希は呟いた。


「彼のことを考えているんだね」


 あなたはそれに答えないでベッドから起き上がろうとしたが、布団のなかから飛び出した手に腕を強くつかまれた。


「行かないで。ここにいて。彼のもとへ帰らないで」


 それはおそろしいほどに沈着な声だった。あなたは涙を拭い、憂希のほうを振り向いた。傷だらけの、飢えた狼。その冷たい瞳の奥には、しかし激しく燃えるものが見えた。


「だめよ。それはできないの」


 あなたは憂希の手を振り解こうとしたが、憂希の握る力はすさまじく、まるで癒着したかのように離れなかった。


「ぼくが必ず、美夜子さんの心から彼を消してみせるから」

「無理よ」と、あなたは冷たく言い放った。「あなたに彼は消せない。私にとって彼は、特別なの。私はこれまでも、これからも彼のことを愛し続ける。私がそう決めたのよ」

「なら、どうして泣くんだ」

「それは、あなたが愛というものを知らないだけよ。幸せや安らぎだけが愛じゃない。悲しみや不幸もまた一つの愛の形なの」

「もしそうだというなら、ぼくのこの思いもまた愛であるはずだ」


 憂希はあなたの冷酷さをはねのけるように言った。あなたは言い返そうとして口を開いたが、言葉が出なかった。昨日までは、憂希の言葉を否定することができたのだ。その愛の相手はあなたではなく、死んだ母親なのだと。しかし、いまの憂希は静かな、それでいて鋭い狼の瞳でほかの誰でもないあなたを見つめている。


 少年だと思っていた男の細い顔に、精悍な狼の面影が重なった。身体じゅうに傷を負い、鎖に繋がれてもなお、迷いなくあなたを見つめる狼。その思いがけない強さと気高さに、あなたは打ちのめされた。


「明日の同じ時間、あの入り江に来てください」


 憂希はあなたの目に浮かんだ涙を拭った。あなたが誘われる側になったのはこれが初めてだった。


「そこで今度こそ、ぼくの愛を証明してみせます」


 証明。ふいに憂希が口にしたその言葉は、宿命的な意味を伴って響いた。あなたは赤く腫らした目を伏せて、わかったわ、とだけ答えた。

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