第18話

「入ってきたんですか」


 髪を洗っていた憂希は驚いて肩をすくめた。あなたは泡だったシャンプーを掬い上げると、濡れた長い髪に押しつけて洗い始めた。


「一緒に入ったほうが効率がいいでしょう。それに私は今日、憂希の恋人のように振る舞うと決めたの。だからあなたも同じようにしてちょうだい」


 あなたたちは互いの髪と身体を洗い、ともに湯に浸かりながら、相手の身体の輪郭を丁寧になぞった。あなたは憂希と彼の相違を、憂希はあなたと自分の相違を探し出すために。風呂からあがったあとは、あなたは彼がしてくれたのとは反対に、憂希の髪をドライヤーで乾かしてやった。先刻の流れ星の尾を思わせる、短くも艶めいた繊維の束は手で掬ったそばからこぼれ落ちていった。そこに顔を埋めると、シャンプーの華やぐ香りの奥にほのかな雪のにおいがした。


 それからあなたは憂希をベッドに誘ったが、そこで行われたのは愛の交換というよりもむしろ掠奪行為に近いものだった。互いが相手の聖域へ荒々しく踏みこみ、最も大切なものを奪おうとする、そんな攻撃的な応酬が続いた。憂希は初めこそしてやられるばかりだったが、あなたから発せられた二、三の挑発的な言葉が引き金となって、狂った獣のようにあなたに襲いかかり、今度はあなたがされるがままとなった。


 あなたの前では誰もが獣になるのだ。彼もまたそうだった。普段は植物的なスキンシップを好む彼も、あなたの分泌する愛の瘴気に当てられるとけだものに変わった。そのときの彼は、たとえるならサバンナに悠然と立つライオンであり、ほとばしる野性のなかにも気品が備わっていた。だが目の前の少年は違う。憂希は、まるで鎖に繋がれた痩身の狼だ。繋がれているからこそ凶暴で、痩せているからこそ飢えている。憂希は今日という日をしのぐためにあなたを襲っていた。母の幻影を追っていた少年ではなく、おのれの不幸すべてを愛という名の牙に変え、あなたの喉元に食らいつく狼の姿があった。あなたのすべてを喰らい、彼から奪い取るために。


 暗闇のさなかに、悲しき運命を知ってなお生にしがみつくことしかできない獣の咆哮が聞こえた。あなたの名前を繰り返し叫ぶ、孤独な獣の咆哮。その切実な響きが、あなたにはたまらなく痛々しく、それゆえに愛おしかった。


 ぐったりと倒れこんだ憂希を抱き寄せながら、あなたは自分の心の奥底を覗くために瞼を閉じた。憂希の凶暴さの前になすすべなくずたずたにされた心、その裏側に、やはり彼の面影が立ち上がった。憂希はこれまで出会ったどの男よりも強くあなたを愛した。おそらく彼ですら、ここまで激しい愛情をあなたに対して証明したことはなかっただろう。


 だが、それでも彼は死ななかった。憂希は、彼を殺すことができなかったのだ。


 瞼を開けると同時に、あなたの瞳から涙がこぼれた。憂希がそれを静かに見つめていた。

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