第16話

 夕暮れどきの時間、南向きのバルコニーからは昼と夜の境界線が見える。西の空には太陽がおのれの勢力を維持しようと水平線にしがみつき、東の空には闇が両手を広げて弱々しい太陽を包みこもうとしている。あなたと彼の、いちばん好きな時間だった。


 ふいに甦る記憶がある。彼とともに、この光と闇のせめぎあいを見つめながら語らっていたときのことである。


「きみ、英文学専攻の山田と寝ただろ」


 彼は何気ない質問でもするかのような口調で訊いてきた。


「あいつ、みんなに言いふらしてるよ」

「言わせておきなさいよ。どんな事実でも、話せば話すだけ安っぽくなるの。いつか価値がなくなるのを待てばいいのよ」


 あなたは彼に髪をといてもらっていた。夏の生ぬるい風に弄ばれる髪を彼が束ね、櫛をあててくれる。髪に触れる指は優しく、ときにくすぐったいとさえ感じたが、嫌いではなかった。


「あなたこそ、別の女の子と寝ているんでしょう」

「まさか、その子も言いふらしているとか」

「いいえ。でも、被疑者に心当たりがあるの。私、あの子とお近づきになりたいわ」


 すると、櫛を当てる彼の手が止まった。


「やめておいたほうがいい。彼女はきみのことをよく思っていないようだから」

「それで、あなたはあの子のほうにいい顔をするというわけね」

「あり得ないな。ぼくは必ずきみのもとへ戻ってくる。きみだって、そうだろう」


 同意を求める彼の声に切実さがあり、答えるあなたの顔にもまた切実さがあった。


「そう……そうね。どんなに遠いところを旅しても、私は必ずあなたのもとへ帰ってくる。だってそれが……」


 あなたは死にかけの太陽を見つめた。闇から生まれ、天高く燃え盛り、やがて夜の抱擁を受け入れて、生まれた場所へ帰っていく。あなたも同じだった。ほかの男に抱かれるとき、あなたは決まって彼のことを思い出していた。彼の硬い胸を。闇のなかで輝きを増す瞳を。あなたの胸の奥深くに刻まれた、魂の戻るべき場所のことを。すると、彼がとつぜん覆い被さるようにしてあなたにキスをした。あなたは太陽の気持ちになって彼を受け入れ、優しさのかわりにけだものの凶暴さを分泌する唇に、日が落ちきるまで襲われた。


 そこであなたはふと、われに返る。記憶の渦から引き揚げられたあなたの目に、一条の光線が映った。星が流れたのだ、とあなたは思った。どうやっても身体のふるえが止まらなかった。どうして、よりにもよってあの会話を思い出したのか。いまこのとき思い出すには、あの記憶はあまりに不吉すぎる。あなたはひたすら憂希のことを考えた。考え続けたが、どうしても彼の影は消えなかった。


 すでに日は没し、あたりはすっかり夜の領域だった。頃合いだ、そう思って部屋に戻ると、ちょうどフロントから来客の知らせが入った。あなたは客をとおすように伝えた。

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