第15話

 四日めの夜、あなたは少年とともにM駅方面へと出かけた。駅の周辺はいちおうM市の中心街だったが、賑やかさはなく、よくいえば落ち着いた、悪くいえばさびれた繁華街といった趣であった。開いている店のなかから、いちばん店構えに気を配っている一軒を選んであなたたちは入った。そこは蟹料理が専門のレストランで、あなたたちは二階の個室へと案内された。


「ここで蟹をいただくのは初めてだわ。夏にしか来たことがなかったから」

「ぼくも、最後に食べたのは何年前だろう。うちは蟹が食卓に並ぶような家庭じゃないから」と言って少年は白い歯を見せて笑った。「でも、いいんですか、こんなところに連れてきてもらって。ただでさえ、ずっとご馳走になっているのに」

「気にする必要はないのよ。きみはまだ学生なんだし」

「それをいうならあなただって学生じゃないですか」

「そうだけど、私にはきみと違って稼ぎがあるもの」

「アルバイトですか」

「半分アルバイトで、半分は勉強ね」


 あなたは答えてからノンアルコールビールのグラスを飲み干した。車で来たために酒を飲むことはできなかったが、このあとのことを考えれば、かえってよかったのかもしれなかった。


「私、K大文学部の仏文専攻でね。あちらの国の新しい論文を翻訳して、教授からお駄賃をもらってるの。あとは、家庭教師をやったりね」

「フランス語かあ、何だかお洒落だな。試しに何か話してみてよ」

「きみが意味を理解できるようになったらね」

「ちぇ、意地悪だなあ」


 少年は口をとがらせて、コーラをストローで飲んだ。この四日のうちに少年とはかなり打ち解けることができ、こうした冗談を言いあえるようにもなった。目の奥底に闇を蓄えてはいるものの、本来は無垢な海風に揺られて育った無邪気な少年なのだ。年相応の快活さと遠慮のなさを持っており、あなたはそれを好もしいと感じていた。また、少年は自分の感情にいくぶん正直でいられるようになったらしく、ときにあなたを姉のように慕い、ときに母のように甘えてきた。だがそれでも、一線を越えることはなかった。あなたたちはまだ互いの名前を明かさず、近づいては離れる波のような関係性のうえにあって、触れ合う寸前であなたか少年のどちらかが身を翻すというもどかしい駆け引きを続けていた。


 あなたは今夜、その駆け引きに自ら幕を引くつもりでいた。


 食事を終え、少年を車で送るあなたは、しかしながらいつもの場所で止まらなかった。


「ちょっと待って。どこへ向かうつもりなんですか」

「今日はいつもより遅いから、あなたの家の前まで送るわ」


 あなたは有無を言わせぬ口調で言い放ち、アクセルを踏み続けた。そして少年が指定した古い鉄板葺きの家の前で車を停止させると、正面を見つめたまま少年の腕をつかんだ。


「明日は私の部屋に来なさい」


 彼にしか聞かせたことのない、蜜の香りのする声だった。


「部屋って、いったいどういう……」


 少年の言葉を遮って、あなたは自らの唇で少年の唇を塞いだ。後頭部を車窓に押しつけられ、逃げ場を失った少年の硬直した舌のうえを、あなたの滑らかな舌が這い回った。少年はあなたの肩をがっしりとつかんでいたが、押し返そうとはしなかった。


 ふいに後ろから車がやってきて、追い越しざまに二人の顔を照らしだすと、あなたはさっと身を翻した。


「明日の、いつもと同じ時間に、私の部屋へ来なさい」


 あなたは先ほどの言葉を繰り返すと、部屋の番号を乱雑に書いたメモを少年の手に握らせ、再び唇を奪った。少年もまたこの状況を理解したのか、今度は両手をあなたの背中に回し、舌を不器用に動かし始めた。二人の熱気のために曇った窓を、あなたは右手でそっと拭った。


 玄関扉の脇に、古めかしい表札が掲げられていた。柏田剛、淳子、憂希。あなたはついに少年の名前を見つけた。憂希。ユウキ。見慣れない組み合わせに、あなたは少年の暗い生い立ちを想像した。


「いいわね、憂希。明日、私は浜辺にはいない。ここに書いてある部屋にいるわ」

「でも、あなたはあの人を……」

「あなたじゃない。ミヤコよ。美夜子。私のことは次からそう呼びなさい。それから、明日かならず私の部屋へ来ることよ。私、今夜は憂希のことを思いながら眠るわ。次に会うまで、あなたのことだけ考える。だから、憂希、あなたも今夜、私のことを考えて眠りなさい。学校にいるあいだも、ずっとよ。それができないならサボってもいいわ。私のことだけを考え続けて」


 そう言って、あなたは憂希の紅潮した頬を両手でそっと包みこむ。


「明日の同じ時間、この部屋に来なさい」


 憂希は小さく、はい、とだけ答えると、放心した顔のまま荷物をまとめて家のなかへと入っていった。あなたは湧き立つ激情によって心臓が内側から痛めつけられるのを感じた。ついにここまで来てしまった。あなたはこれまで隠していた貪欲さをさらけ出し、憂希をあなたと彼の世界、あのがんじがらめの絆の内側へと引きずりこんだのだ。


 こうなってしまった以上、もう後戻りはゆるされない。あなたと彼、そして憂希の運命を左右する重大な証明、あるいは大きな賭けが始まってしまったのだとあなたは思った。

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