第12話

 まだ雪はなかったが、分厚い雲が空の低いところに立ちこめており、窒息しそうな閉塞感があった。まるであなたの心のなかを見ているようだった。あなたの心は彼がいなくなったあの日から機能不全に陥り、止めどなく溢れる感情がいっこうに処理されないままこごって観念的な鬱血を引き起こしている。常に息苦しさとともにあり、それは冬の寒さと相まってあなたの心のみならず身体までも責め苛んだ。


 一刻も早く、彼を見つけ出さなければならなかった。あなたの心が、内側から湧き上がる感情によって壊死してしまうまえに。しかしいま、助手席には彼ではない男、母の幻影にとらわれた少年が座っている。あなたは少年の名前をまだ知らない。食事をともにし、何時間も話しこんだにもかかわらず、少年の名前を聞き出せずにいたのだ。遠いのか近いのかはっきりしない距離感は居心地の悪い沈黙を生み、二人の胸のざわめきを浮き彫りにした。あなたは車を静かに発進させた。


 彼の家は海沿いに敷かれた国道をW市方面へ向かったところにあるが、そこへ行くためにはあの入り江を通過しなければならず、そのことがあなたをよりいっそう憂鬱にさせた。また少年も、かつてあの場所でしでかしたことを思い出しているのか、具合が悪そうな様子で海と反対の方向を向いていた。


 あのとき、砂浜のうえの戯れを盗み見ていた数名のなかでなぜこの少年があなたの前にあらわれたのか、その理由を考えていた。相手がほかの少年たちであったなら、あなたはここまで心を乱されることはなかっただろう。しかしこの少年は、彼と似ても似つかないにもかかわらず、彼の面影をごく自然に纏うことができる。そしてそれは、あなたがごく自然に、彼の幻影を少年に投影できるということでもあるのだ。少年から離れなければ、とあなたは思った。何かよからぬことが起こる前に、この地を離れなければ。


 やがて緩やかな弧を描いていた道が急に跳ね上がり、入り江が眼前に姿をあらわしたとき、あなたは息を止め、なるべく何も考えないようにしながらアクセルを踏んだ。ほんの十数秒の時間が途方もない年月のように感じられたが、車は無事に入り江の脇を通過し、遠くに家々の明かりが見えてきた。


「ひとつ訊いてもいいですか」


 長い沈黙を破って、少年が言った。


「いいわよ」

「どうしてあの人と一緒じゃないんですか」


 不躾な質問に、あなたの眉が引きつった。思わずカッとなって少年のほうを見ると、そこには眠たげな目をした横顔があった。


「いなくなったの」

「いなくなったって、行方不明ってことですか」


 少年はにわかに真剣な表情を浮かべて訊ねた。


「そう。ここへ来たのも、彼を捜すためなの」

「それじゃあ、もしかしてぼくはあなたの邪魔をしてしまったんじゃないかな」

「いいのよ。どうせここに彼はいないから」


 まるで、自分自身に言い聞かせるような口調だった。いつの間にか雪が降り始めていた。

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