第9話

 ホテルの一階のカフェ『パミーナ』に入ったあなたたちは、ウェイターが見晴らしのいい席に案内するのを断って隅の席につき、ホットのミルクティーとココアを注文した。夏場ならばきらびやかな景色を望むことができるだろうが、あいにく季節は冬の真っ只中である。草木は枯れ、曇りのために星もなく、暗い海の表面をただ仄白い波が撫でていくだけの光景を見せられても、寒々しさが増すばかりで感動はない。それならば、彼の面影を持つこの少年を見つめているほうがあなたとしては心が穏やかでいられた。


 天井の照明が暗めになっている代わりにテーブルには小さなランプが置かれ、火の色の光を反射する少年の瞳はトパーズを思わせた。あなたは少年を見つめ、静かに微笑した。少年は相変わらず強張った表情をしていたが、今度は目を逸らさなかった。少年は、夜の闇を吸収し、妖しさを増すあなたに魅入られていた。


「きみ、無口なのね」あなたはわざとらしく溜め息をついた。「さっきから何も話してくれない」


 それはあなたにしてみればちょっとした悪戯のようなものだったが、少年はどうやらあなたを失望させてしまったものと考えたらしく、目を忙しくしばたたかせながら弁明した。


「すみません。別に無口って訳じゃないんだけど、その、何を話せばいいのかわからなくて」

「なら、きみのことを教えてよ。このあたりの子なのかしら」

「ええ。生まれも育ちもこの町です。ホテルから海沿いにW市方面に向かうと、ちょっとした集落があるでしょう。あそこにぼくの家はあるんです」

「まあ」


 あなたは驚きの声をあげた。少年の言っている場所の想像はつくが、そこはあなたが向かおうとしていた入り江よりもさらに先にある。車やバスならそう時間はかからないだろうが、歩いていくような距離ではなかった。


「どうして」


 どうしてバスに乗って帰らないのか、と訊ねようとしたあなたが口を噤んだのは、少年の制服にほつれを縫った跡を認めたからだった。それも一つや二つではなく、至るところに補修の痕跡がある。それに、制服のサイズは少年の身体よりも一回り大きく、裾や袖が余っているようだった。あなたは視線をそっと学生鞄のほうへ動かしたが、やはり一年や二年でそうはなるまいというほどにボロボロで、制服と同様、よそから譲り受けたものとわかった。


「ちょっといいかしら」


 あなたはウェイターを呼び、ビーフシチューとパンにサラダ、それから食後のデザートをそれぞれ二人ぶん注文し、さらに先ほど頼んだミルクティーとココアをデザートと一緒に持ってきてもらうよう頼んだ。驚く少年にあなたは言った。


「ごめんなさい。昼から何も食べていないからお腹が空いちゃったの。でも、私だけ食べるのも申し訳ないでしょう。お代は私が持つから、きみも食べてちょうだい」

「それはありがたいですけど、でも、いいんですか」

「いいの。遠慮しないで」


 あなたは彼にいつもする、花の綻ぶような笑みとともに言ったが、その笑顔の裏側には冷ややかな青い血が巡っていた。あなたの心は冬の海と同じかそれ以上に冷え切っていた。少年の身なりから貧困を勝手に想像して押しつけがましいことをしてしまったが、こんなものはあなたにとって偽善以外の何ものでもない。あなたにとって善意とはそれに対する見返りが約束された段階で初めて成立し提供されるものであり、それゆえあなたは隣人愛的な、無償の善意というものを持ちあわせてもいなければ信じてもいなかった。どういう形であれ、自分自身をただで売るということをあなたは好まなかったのだ。


 そんなあなたが、なぜこの少年に食事を振る舞う気になったのか。この善意に対して、どのような見返りを求めようというのか。


 何かよくないことが起こるのではないかという予感が胸に湧いた。そしてあなたの経験上、この手の予感は的中するものだ。

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