第7話
午睡から目覚めたあなたは、思い出の入り江まで車を走らせることにした。鉛のように重たい意識を引きずって、浜辺へと続く坂を下っていく。別にホテルの駐車場を使ってもよかったのだが、あなたは冬の海辺を自分の足で歩いて確かめてみたいと思い、あえて距離のある海水浴場の駐車場に車を停めたのだった。
ホテルから続くこの坂は夏場であれば絶えず車の往来があり、いちおう歩道は用意されているが、徒歩で往復する人はほとんどない。あなたもこの道を行き来するときはたいてい助手席に座っていて、送迎用のバス代を節約するために汗まみれになって歩く家族連れなどを見ると、冷房の風に髪を揺らしながら馬鹿にしたものだった。
しかし実際に歩いてみると、道のりは思ったよりも短く、荷物が多くなければわざわざ車で行くほどの距離でもなかった。あなたは歩き足りない気分と多少の恥ずかしさを抱いたまま駐車場のゲートをくぐった。
もうすぐ四時に差しかかろうというころだったが、日は西に傾いて水平線近くを血の色に染めていた。その毒々しい輝きを見つめていると、ふいに目眩を引き起こしそうになる。海から吹く風があなたを呼んでいた。どこか遠いところ、いちど向かったら簡単には戻れないところへ連れて行こうとしていた。とにかく車に乗ってここを離れなければとあなたは思った。にもかかわらず、身体は意に反して浜辺へと続く階段を下り始めていた。
どうしてあなたは車に乗り、入り江へ向かわなかったのか。そのために凍てつく風の吹きすさぶなかをここまで歩いてきたのではなかったのか。確かにそのとおりだった。あなたはあの入り江に向かうはずであり、そもそもこのM市を訪れたのもあの場所が目当てだったのだから。それなのに、心の極夜の部分がここから離れることを拒んでいた。
あの入り江へ向かい、そこで起こるであろうことを想像するだけで、青い憂鬱のガスが肺を満たした。黒いコートを着込んだ身体が震えているのは、寒さのためだけではない。あなたはおそれていたのだ。入り江で彼に出会えないこと、もしくは
コートが汚れるのも気にせず、あなたは砂浜に両膝を立てて座りこんだ。海風に髪が乱れるままに、水平線に沈んでいく夕日を見つめる。その背中に、彼の心と身体を支配していたときのような威厳はない。いまのあなたは、世界の片隅で息をひそめ、ただ待つことしかできない小さな子ども。プライドを傷つけられても、世界に対して怒りを露わにすることすらできないか弱い少女だった。
あの夕日が沈んで夜が来れば、もう入り江には行けなくなる。ただでさえこのあたりの夜は暗いし、今夜は雪の予報なので、ペーパードライバーのあなたに運転なんて無理な話だろう。あと少し、水平線に光が呑みこまれるのを待てば。あなたは一分を永遠という単位にまで引き延ばしながら、夜の訪れを待ち続けた。
「あの」
ふいに背後から声がして、あなたは首を鋭く振り向かせた。するとそこには、見覚えのある人物が立っていた。
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