第3話

 そのあといくつかの事務的な説明を受けたあなたは、彼といつも過ごしたあの部屋へと案内された。当初の予定ではこれからあたりを散策するはずだったが、長時間の運転で疲労が溜まっていたあなたは軽い失望の予感を抱いてベッドに滑りこんだ。いつも彼がいるはずのこの部屋は、あなた一人にはあまりにも広く感じられた。


 おそらく、彼はここにはいないであろうという確信があなたのなかに芽生えていた。そもそもM市に到着してからこちら、何の感慨も感傷も湧かなかった。この場所には特別な思い入れがあるものとばかり思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。季節が夏から冬に変わるだけで、見慣れた景色はにわかに余所余所しくなり、あなたを拒絶した。もし彼がここを訪れたのだとしたら、同じことを思っただろう。あなたがたが不在にしていた数ヶ月の間に、夏の秘密は波に洗われ、名残すらも留めてはいなかった。


 それにあなたがたの言葉を用いるならば、ここには二人だけの世界というものの手が及んでいなかったのだ。あなたはそのことを、知覚過敏ぎみの意識によって察知していた。


 ここにきて、あなたの観念はこれまでとは異なるベクトルに従って動こうとしていた。つまり、彼を捜索するためではなく、彼との思い出に浸るためここへ来たのだと考えることにしたのだ。ここには彼の姿はないが、ともに過ごしたという確かな事実がある。その事実にすがり、空想によって喪失感を埋めることで、あなたは心の平穏を保とうと試みた。


 彼と食事をとったテーブル、星を見ながら語り合ったバルコニー、互いの最もくすぐったいところを愛撫しあった浴室、そして運命の鎖で二組の肉体と魂を縛るあの儀式を執り行ったベッド。この部屋だけは彼との思い出に溢れており、そのことがあなたを安堵させた。それは、傍目には男に捨てられた女が自らを慰める虚しい行いと映るだろう。けれどもあなたの心は喜びと幸福感によって満たされていた。あなたがたのあいだでは、虚しさでさえ愛おしむべき対象となるのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る