第1章 森の奥深くに

第1話 逃亡劇

ある春の日の夕方。僕は職場の会社にある自分のデスクの上を片付け終えて、主任の元へ行き、最後の挨拶をしていた。そう、今日で僕はこの職場を去ることにしたのだ。


辞めることにした理由は単純である。


どうしようもなく苦しくなったから、である。

 

ここは何だかんだで家から遠くなくて通勤も億劫じゃないし、待遇だって悪くない。 

それこそ自分の設計した製品が世の中の役に立っている、それもその道のプロが頼りにしてくれているというのだから誇れる仕事だったのは確かだった。

ただし、本当にそう思えたのはもう遥かに前の事だった。ここしばらくは数日家に帰れず現場にこもりきりなんてことはザラだったし、現に三か月前だって残業三昧だった上に、人手が減りすぎて仕事量は倍増し、ミスを連発して取引先を激怒させてしまい、契約が破談になる寸前になったばかりだった。


頑張っても頑張っても空回りし続ける現実。増え続けるタスク。積み重なってくストレスと疲労。 膨れ切った水風船がはじける様に、僕の心も壊れてしまった。   


もう自分が何者なのかもすら見失っていた。


今日は大卒でここに勤め始めて丁度五年目となる日だった。


今思い返してみればここに入るのだって、沢山の苦しい勉強を重ね続けて、試験を潜りぬけてきたのに、辞める時は辞表を書いて、提出して、そしてそこからはあっという間の事だった。 もうこれで全てが終わる。


「本日まで、本当にお世話になりました。」


「ああ、ご苦労だった白瀬君。・・・・しかし、本当にいいのかね。 君はまだまだ働き盛りだろうに。」



「いえ、いいんです。 僕はもうここに居続けても、皆さんの足を引っ張るだけですから・・・それでは。」


深くお辞儀をして、また、他の同僚たちにも挨拶をしてゆっくり頭を下げて、ゆっくりと僕はその場を後にした。 そして、駐車場へと戻り、自分の車に乗り込んで、ハンドルに突っ伏し、はあ・・・・と深いため息をついた。


「本当に辞めちまったんだよな・・・僕。」


いまいち湧かない実感と、そして本当に決断を下してしまったんだなという思いが交錯して、ぐりぐりと頭の中を散らかしていった。 次にどんな職に就くなんてあてはない。これからどんな風に生きていくのかさえ、固まっているはずもない。


自分でも、もうどこへ向かえばいいのかも導き出せる気がしない。もし次の働き口を見つけれたとしても、また同じような事を繰り返すのではないか。そんな事ばかりが脳裏をよぎる。


車のエンジンをかけて、走り出し、職場を後にすると、僕は茫然自失としたまま車をひたすらに走らせ続けていた。行き先も、あても決めぬままに。どうしようもない気持ちを抱えたまま夜道を彷徨い続ける。商店街を抜け、住宅街を抜け、峠道を抜け、気づいたら、昔よく遊びに来ていた山奥の森林に辿り付いていた。 ここは沢山の珍しい動植物が残り続けていることで有名でその筋の研究をする人や、自然を愛している人たちの憩いの場として人気がある一方で、奥に行けば人目に付きづらく、それにくくるには丁度いい木々がある事から、所謂自殺の名所としても有名な場所でもあった。


車を降りて、そのまま僕は樹海の中をただひたすらにフラフラと、茫然自失となりながらゆっくりと歩き、彷徨い続けた。暗く、足元のぬかるんだ深い土の上を、履いている革靴が土にまみれて、靴の中までグズグズになろうと、そんなことは構いもせずに山の奥深く、奥深くへと足を進めた。 自分でも、どうしてこう山を彷徨っているのかはよくわからなかった。




 

でも、今思い返すと、その時の僕は何よりも現実から逃れたかったのかもしれない。あのもう思い出したくない現実からほど遠い、遠い遠い山の中に、只々深い闇の底へ消えていきたい気持ちが、僕をこの衝動に駆り立てたのだ。 しかし、その逃亡劇は、長くは続かなかった。 

僕は歩き続けて数十分経って、足を木の根元に引っ掛けて転んでしまったのだ。


膝を強く打った後、そのまま地面の傾斜に従うようにコロコロと下の方に転げ落ちていき、たまたま聳え立っていた木の幹に激突して止まった。

 

体中に走る激痛と、膝や足の裏からドロッと流れ続ける血の感触を認識して僕は、初めて自分が身体ごとボロボロになっていた事実に気が付いた。



「はあ・・・何やってるんだろ・・・・・・ハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」


何故だか笑いが止まらなくなったし、同時に湧き上がってくるように涙がボロボロと零れ落ちてきた。


もう、本当に自分の何もかもがボロボロになってしまった。腕も足も痛い。 もしかしたら折れているかもしれない。 


こんな山奥に来てしまったら、もはや自力で抜け出すこともままならない。 


自分が人間っぽい形の何か、それも最早器もボロボロになったゴミ屑になり果ててもなお、まだ生物的には「生きている」状態なのであった。 それがなんとも空しくて苦しくて破滅したくなるような気分にさせていた。


ロクに仕事もできず、自分で夢中になれるものも、打ち込めることもなければ、こうして少し現実から逃れようとも足を引っかけてボロボロになる始末。 どこまで行っても、僕はゴミ屑だった。


・・・こんなことならいっそ、自分で事切ってやる。


衝動的に、そんな思考が頭の中に浮かんでしまった。 立てるのか。少し体に力を込めてみると、痛みは伴うが、とりあえず手足はそれなりに動くようであった。骨も幸い折れてはなかったらしい。木にもたれかかりながら、どうにか立ち上がると、ポケットからたまたま入っていた、携帯の充電ケーブルを取り出した。


そしてそれを輪になるように木の枝に結ぶと、踏み台になりそうな大きめの石を下にセットして、いよいよそれは出来上がってしまった。


「もういいんだ・・・これでいいんだよ・・・・。」


少しばかりまだ恐さは残っていたけれど、もうその感情すら超えたこの意思は、とうとう自分の首を輪にかけるところまで持っていってしまっていた。

後は、足を石からずらせば全ては終わる。 やってやる。後五秒でやってやる・・・。


心の中でゆっくりとカウントを始める。


5・・・4・・・3・・・2・・・


そして、1と言いかけた時、後ろから声が聞こえてきたのだった。


「ちょっとあなた・・・敷地の木でくくるのやめてくれない?  死ぬなら別のとこにして。」


ん? 誰だこいつ・・・? そう思いながら、ゆっくりと目を細めてピントを合わせてみる。


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