招き猫

 とある港町を訪れている。一人旅の理由は、特にない。ただなんとなく海が見たくなってここまでやってきたのだ。

 入り組んだ路地をあてもなく散策する。人気はない。昼下がりの日陰の小道はひっそりとしていた。涼しくなった空気が秋の訪れを告げている。

 小鳥たちが鳴き交わしながら、頭上を通り過ぎた。その羽音が遠ざかると、静寂が訪れた。

 前方の狭い道は二手に分かれている。どちらに行こうかと考えながら左右を見渡すと、道端に招き猫が置いてあることに気づいた。左手を上げて黄色でふちどられた黒い目でこちらをじっと見ているようだった。

 足を止めてそれを見つめた。小さな置物だったが、妙な存在感があった。この先にある何かへの誘いのように思える。私はその招き猫が置かれている方角へと進むことにした。

 しばらく歩くと、道は狭くなり、階段が現れた。急な勾配だ。石段が曲がっているようで、下からでは先は見えない。どこまで続いているのか分からないが、行ってみよう。一段目に右足を乗せる。それから左足を乗せた。そうして一歩ずつ上がっていく。

 石段の脇には招き猫がひとつ、またひとつと置かれていった。だんだんと数が増えていくように思える。数え切れないほどたくさんの招き猫が重なり合うように並んでいた。

 私は不安になり、背後を振り向く。

 そしてその光景に愕然とした。

 今まで登ってきた階段は辺り一面、招き猫で埋め尽くされていた。全てこちらを見ている。

 もう引き返せない。私はさらに上を目指すしかない。恐怖心を抑えつけ、必死になって足を動かした。無数の招き猫に囲まれている。どの顔も笑っているように見えた。

 その異様な光景に圧倒されながらも登り続けると、急に視界が開けた。目の前にはカフェらしき建物があった。入り口の上に看板が出ている。そこには『ねこやしき』と書かれていた。私は歩き疲れていた。緊張で喉も渇いている。

 ドアを開けるとカランカランという鈴の音と共に「いらっしゃいませ」という声が聞こえてきた。中に入るとアンティーク調の家具が置かれた落ち着いた雰囲気の店内だった。店主は白髪の上品な女性だ。穏やかな表情をしている。彼女は私を見ると、「お好きな席へどうぞ」と言った。

 私は窓際のテーブル席を選んだ。窓からは青い空と波がキラキラと輝いている海が見える。外の風景に見惚れていると、しばらくして店主がメニューを持って現れた。彼女は「ご注文が決まりましたら呼んでくださいね」と言って去っていった。

 私はホットコーヒーを頼んだ。カウンターの奥の店主は丁寧な手つきでコーヒーを淹れていった。店内に香りが広がる。運ばれてきた飲み物を口に運ぶと、まろやかでコクのある味と温かさがじんわりと体に染み渡った。気持ちが落ち着いていく。

 ふとカウンターの端を見るとぽつんと置かれた招き猫が目に入った。石段に積まれていたものと同じものだ。私はギョッとしながらも視線を逸らすことができなかった。その様子に気づいた店主はくすりと笑う。

「この子に招かれて、こちらに来られたのですか?」

 そう言って指差したのは、やはりあの招き猫だった。

「はい……どうして分かったんですか?」

 私が恐る恐る尋ねると、彼女は微笑を浮かべながら答えた。

「たまにそういうお客様がいらっしゃるのです。閑古鳥が鳴いていた店に招いてくださったんですね。怖い思いをなさったでしょう?申し訳ありません」

 店主が言うには、この招き猫は不思議な力があり、細々と営むカフェに客を呼んでくるという。しかし、あまり多くの人を招くことはできないらしい。だからこうして、たまにひとりだけ招き入れるのだという。店主はその客のため誠心誠意を込めて、料理や飲み物を提供しているそうだ。

 招き猫にまつわる話を聞いているうちにすっかりリラックスしていた。不気味に思えた招き猫もどこか愛嬌のある顔に見えてきた。

 美味しいコーヒーと美しい景色に出会えたのだから良しとしよう。私はそんなことを考えながら、再び窓の外を眺めて、私はカップに残った最後の一口を飲み干した。

 勘定を済ませて外へ出た。階段を下ると、行きにあった招き猫の群集はひとつも見当たらないし、案外簡単にホテルへ続く通りに出た。

 寄り道には思わぬ出会いがある。旅の醍醐味のひとつかもしれない。

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