嵐を運ぶ子

 ラジオからノイズ混じりに天気予報が聞こえてくる。どうやら台風が近づいているらしい。

 突然、雷鳴が轟いた。窓の外に目をやると一人の子供が庭に立っていた。顔立ちはあどけない。大きな瞳をしていて、切り揃えられた髪は濡れて額に張り付いている。年の頃なら十歳前後だろう。子供は濡れた服を脱ぎ捨てると、縁側に上がり込んできた。

「やぁ」

 子供は人懐っこい笑顔を浮かべて挨拶した。まるで友達の家に遊びに来たような気軽さである。

 しかし私は困惑していた。この子は何者だ? 様々な疑問が頭に浮かんだものの、声を発することができなかった。ただ呆然と見つめているだけだった。すると子供が近づいてきて私の顔を覗き込んだ。

「どうしたの?」

 不思議そうに尋ねる。だが私には答えられなかった。ようやく口を開くことができたのは、それからしばらく経ってからのことだった。

「君は…誰?」

 やっとそれだけを口にする。すると子供は屈託のない笑みを見せた。

「僕はね、雨男あめおっていうんだよ」

 それが彼の名前だった。

 私は彼の名前をおうむ返しで繰り返した。彼は大きく肯く。

「うん。でも本当の名前は忘れちゃったな。だから雨男でいいよ」

 雨男は縁側に座って足をぶらつかせた。そして空を見上げる。そこにはいつの間にか暗雲が立ち込めていた。今にも泣き出しそうな曇天が広がっている。

 それを眺めながら彼は独り言のように言った。

「僕の役目は南の海で生まれた龍を北の大地まで運ぶことなんだって」

 彼は話を続けた。

 雨男が語るところによると、師匠と一緒に南の海に龍を迎えに行ったが、師匠は急用があって役目を任されたという。その後、道に迷ってしまったそうだ。

 彼の話は荒唐無稽なものだったが、不思議と信じることができた。なぜかといえば、この子があまりにも純粋だったからだ。その瞳に嘘はなかった。

 私は慌てて立ち上がった。

「とりあえず服を着替えてきなさい。風邪を引いてしまう」

 彼は素直に従った。

 着替えを終えた雨男を連れて居間に戻る。すると彼が驚いた表情になった。

 テーブルの上に並べられた料理を見て感嘆の声を上げる。

「凄いなぁ!もしかして君が作ったの?」

「そう。口に合うかどうかわからないけど……」

「そんなことないよ。いただきます!」

 雨男は元気よく言うと箸を手に取った。まず最初に味噌汁に手を伸ばす。

「美味しい! すごく優しい味がするね」

 雨男は次々と料理を食べていった。その食べっぷりの良さに思わず微笑んでしまう。とても気持ちの良い食事の時間となった。

 やがて全ての皿が空になる。それを見た雨男は満足げに息を吐いた。

「ごちそうさまでした」

 両手を合わせて頭を下げる。私もそれに倣った。

 そこでふと思いつくことがあった。雨男の正体についてである。この子は人間ではない。なんとなくそれはわかっていた。私は思い切って尋ねてみた。

 すると彼はあっさりと答えた。

「僕かい? 僕は天狗さまの弟子だよ」

 やはりそういうことだったのか。得心していると、彼は少し照れ臭そうにした。雨男によると、本来ならば自分がここに来る予定ではなかったらしい。

「ところでその龍はどこにいるの?」

 私が訊ねると、彼はリュックサックから丸い硝子瓶を取り出した。中は灰色の雲が渦を巻いて蠢いている。時折小さな稲妻がチリチリと煌めいて見えた。

「これが龍なんだ」

 私は驚いてしまった。まさかこんな小さな瓶に龍が入っているとは思わなかったのだ。雨男は瓶を大事そうに抱え上げた。

「龍は生まれたばかりだから力の制御が出来ないんだ。大きくなって自分の力で天に昇るまで僕がお届けしなくっちゃ。北の大地まで旅するのがしきたりだよ」

 外からは激しい風雨の音が聞こえる。台風はますます勢力を増しているようだ。

「この台風もこの龍のせい?」

 私が問うと、雨男は頷いた。

「うん。早く大人になって欲しいんだけどね。なかなか上手くいかないみたい」

 彼は困ったように頭を掻いた。すると突然、強い閃光が走った。同時に雷鳴が鳴り響く。私は反射的に身をすくめた。だが雨男は平然としていた。慣れている様子だった。

「そろそろ出発しないと。怒られちゃう」

 雨男は立ち上がると、リュックサックを背負い直した。

「もう行くの?」

「うん。あまり遅くなるとこの町が水没しちゃうよ」

 彼は玄関に向かって歩き出した。私もそれを追いかける。靴を履いて外に出ると、先ほどよりも強くなった風に煽られた。雨男が転びそうになる。私は咄嵯に彼を支えた。

「ありがとう」

 雨男は嬉しそうにはにかむと、私の手を握った。ひんやりとした感触だった。私は空を見上げる。すると巨大な積乱雲が迫ってくるのがわかった。どうやらこの辺りは嵐の中心となっているようだった。このままでは町は洪水に見舞われてしまうだろう。

 雨男はふわりと浮かんだ。そして私の顔を見る。

「じゃあ、またね」

「うん、気をつけて」

 私は手を振った。彼は微笑みながら小さく肯くと、そのまま上昇していった。

 そしてあっという間に見えなくなってしまう。しばらく空を見上げていたが、いつまでもこうしているわけにもいかなかった。

 私は家に戻るとラジオをつけた。天気予報によれば明日には晴れるということだ。雨男は北に無事に旅立ったらしい。


 翌日になると予報通り快晴になった。窓を開けると心地よい空気が流れ込んでくる。遠くから蝉の声が聞こえてきた。

「雨男」

 空を見上げて呟いてみる。不思議なことに彼と過ごした時間は短かったはずなのに、なぜか寂しさを感じた。

 だがそれもすぐに消える。何故なら私の日常は平穏そのものだからだ。

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