第14話 暗闇の中で触れた手
暖炉には火が入っていて、こちらの夜はブルターニュよりも冷えるようだ。
酒場の隅っこで一人酒をすすりながら、背後に耳を澄ませる。行商人ならまだしも、金の無さげな地味な旅人を気にかける者はいない。
ごく小さな村だから情報が広まるのはあっという間で、「リュクス様のお館に親子連れの女が来たぜ」「隠し子か?」「いや若い方が新しいお妾かも」「領主さまもまだまだ隅に置けねぇな!」と好き勝手に噂されている。
あの時襲ってきたブルターニュ兵は見ればわかる手練れだったし、そんな奴らが自領で人を襲っているのを見たら救援に動くのが善管な領主というものだ。
だがマリーとジェルメは館へ連れられたきり出てこなくなった。そして衛兵が周囲を油断なく見張っている。それはやはり———
「ここがブールゴーニュだから」
ジェルメにとって思い出したくない場所のはずだ。その記憶は容易に消せるものではないだろうし、リニー伯の方も顔を覚えている可能性は十分にある。
ならば行くしかない。
森で離れ離れになってから既に二日が経過していた。川沿いに建つ館の二階、七つ並んだの窓の左から三つ目に、二人の姿が視認できている。
日が落ちてからも庭の藪に隠れてじっと待つ。とっぷり暗くなり見張りが引き上げると、まず館の隣にある白壁の教会へ向かい、窓枠を足場に屋根の上へ躍り上がる。教会は平屋だから容易だ。それから音を立てぬよう端まで屋根を走り、館の二階の屋根を目掛けて跳びかかる。
「く…っ」
指先に全神経を集中させる。握力だけで全身を支えるのはきついが、何とか足に幕板の引っかかりを見つけた。真っ暗で視界はほぼゼロだ。昼間に周囲を観察した記憶と何度もイメトレした勘だけを頼りに、一階と二階の間の幕板に沿って手足を横に滑らせ進む。
屋根のフチを握りしめた指から前腕がぶち切れそうだが、気力だけで耐える。命綱の幕板のでっぱりは3㎝ほどで、頼れるのは握力と爪先の感覚だけなのだ。
館の側面から始めた横歩きは正面に回り、一番左の窓にさしかかる。さっきまでこの部屋には燭台が灯っていた。今は消えているが、中ではまだ起きているかもしれない。
(アン…、ドゥ…、トロア!)
三でへばりついていた壁から手足を離して窓を飛び越え、また指先で掴む。
「あぐぅっ!」
着地で爪先が幕板を捉えられず、ガクンと下がる体を引き戻そうと、全体重以上の重さが指先にかかった。おかげで左手の人差し指と中指の爪が剥がれたが、舌を噛んで悲鳴を堪える。
(落ちるな、指が折れても絶対落ちるな! 耐えろ!)
痛みと焦りで脂汗がどっと湧いてくる。足で探りまくり、ようやく幕板に両の爪先を乗せられた。
それから誰もいない二つ目の窓を越え、なんとか目当ての三つ目にたどり着いた。
「はあっ、はあっ、はあっ、」
寒い夜だというのに流れる汗を袖口で拭い、アーチ型の窓枠の内側に体を縮こませた。夜陰に音が響かないように細心の注意を払い、コツコツとガラスを叩く。
起きているだろうか。ジェルメは眠りが深いから、寝ていたらこのまま気づかないかもしれない。そう思いながら何度か続けると、抑えた声で応答があった。
「だれ?」
その声に、痛みで今にも叫び出しそうだったのがふっと気力が上回り、まだ大丈夫だと思えた。
「俺だ」
観音開きのガラスが細く開いた。
「無事だったのね。あなたまで囚われたのかと思っていたけど良かった。ザントライユは?」
「さあ。ブルターニュ兵と共に追い立てられていたから、敵と勘違いされたんじゃないか?」
「どう見ても悪人だものね」
「脱出しよう」
「待って、今は」
「リニー伯といえば以前君を捕らえた張本人じゃないか。早く行こう」
「お願い待って、マリーも眠っているし。それに———」
暗闇だから、窓越しの距離でも表情はほとんど見えない。だから本当はジェルメが怯えているのではないかと気が気ではなかった。一刻も早くここから連れ出したい。
「忌まわしい過去なんて思い出す必要ない。マリーは俺がおぶっていくから、さあ」
「そうじゃないの。聞いてポール、今の私たちにはバタール様が、つまりオルレアン公家がついている。だからリニー伯も独断で処遇を決めるわけにいかなくて、今はブールゴーニュ公の返事待ちなのよ。ブールゴーニュ公だってオルレアン公と敵対はしたくないはず。だから下手に動いて彼の機嫌を損ねない方が良いと思うの。私は平気よ」
ジェルメの「平気よ」は全然あてにならない。昔からそうだ。
中腰に疲れてきたポールが窓枠にしゃがむと、ジェルメはもう片方のガラスを少し開けて腰かけられるようにしてくれた。
「前に捕まった時は脱走に失敗して、鞭で打たれたし。そのことはきっとリニー伯も覚えてるでしょ、だからおとなしくしておくわ」
「そんなことがあったのか。ルーアンに移送される前だろう? あいつ、このまま許しておけないな」
「おとなしくって言ったばっかりでしょ。今は食事もまともだし、私もマリーも何もされていないから」
これまで昔のことはあまり聞いてこなかった。つらい事を思い出させないよう、わざと避けてきたのだ。
けれどこの旅は、そうはいかないのかもしれない。ジル・ドゥ・レから始まり、導かれるようにオルレアンへ向かい、そして今度はブールゴーニュへ。
マリー・ドゥ・レという少女がジェルメをどこかへ導いているのではないか。そんな気すらしている。
だから今度は、旅の最後までそばにいたい。途中で失ってしまった後悔、あの痛みはもう、二度と繰り返したくない。
「ルーアンの時は助けられなかったからな」
「え…? ルーアンって、あのルーアン?」
「ああ。その、俺も一応ジル・ドゥ・レの作戦に志願してたんだ」
「そうなの? そういえばオルレアンにも参戦してたのよね? そんな前から私のこと知ってたの?」
「まあ…俺は存在感ないし、君は救世主だったから知らなくて当然だけど」
「話したことあった?」
「あるわけないだろ。だって…」
あの頃のジェルメは本当に聖女だった。その辺の娘とは全然違ったのだ。姿形の美醜ではなく、目がきらきらしていた。そしてひとたび”声”を発すれば、誰もがそれに聞き入った。
「だって何よ?」
けれどそれだけじゃない。負傷者を優しくいたわり、死者には敵味方関係なく祈りを捧げる。そして年頃の娘らしい顔で笑うことだってある。身分の高い貴族から嫌がらせされることも多いらしいが、弱音を吐く姿など見せずいつも凛と背筋を伸ばして、俺たちのために旗を振ってくれた。
そんな姿をずっと見てきた。
窓枠にかけた手の小指同士がわずかに触れる。左手は痛みに震えていたが、悟られないように力をこめた。
「君が様子を見ると言うならそれに従う。隠れて窓を見張っているから、もし危険が迫ったら知らせてくれ。窓を開けるでも何か落とすでもいいから」
「分かったわ。これ、持って行って。寒いでしょう」
自分の寝台から毛布を丸めてくれたようだ。
雲が薄くなり、月の光がわずかに差す。ジェルメの表情は、やっぱり思った通りだった。
「……、怖いんじゃないか。無理ばかりして」
「平気。マリーのためだもの」
ルーアンの時は、イングランド兵に阻まれてたどり着くことすらできなかった。
「来てくれてありがとう、ポール」
だから爪が剥がれたくらい、何でもない。
一つ頷いて、ポールは窓枠から玄関ポーチの屋根に跳び移った。そこから柱をよじり下り、途中から地面へ飛び降りる。
茂みに隠れると、剝がれかけてペラペラになった爪を引き抜き、応急処置をして窓を振り返る。しばらく見ていても中の動きはなく、ジェルメも寝台に戻ったのだろう。頭から毛布をかぶると、彼女の匂いがした。
翌日になっても、窓の向こうで異変が起きている様子はない。じっとしていると冷気が上から覆いかぶさり下からつかみ上がってきて、空腹と共にひたすらに耐える。
動きと言えば午後に早馬と思しき使者が戻ってきただけだ。あれがブールゴーニュ公への使いなのだろうか。
そして翌朝、衛兵に先導されたジェルメとマリーが馬で出発した。しばらく離れたところで様子を見ていたが、危険は感じられないため合流する。
「ブールゴーニュ公が面会を許可してくれたらしいわ。ディジョンまで先導するって」
それに『フィリップ様の御前に汚い姿で参上させるわけにはいくまい』と、道中泊まる場所もリニー伯が用意してくれるという。
「あの人、超几帳面なのよ。部屋も埃一つなくて、汚しちゃいけないと思うと逆に過ごしにくくかったわ。その手、どうしたの?」
指に巻いた布には血がついているが、ポールは「ちょっとな」とだけ答えた。
「ねえ、ザントライユは?」
「俺も姿を見てないんだよ、マリー。先に着いているかもしれないな」
「おとなしくしててくれるといいんだけど」
三人は顔を見合わせて、苦笑いだった。
衛兵に守られ屋根の下で休める安全な旅は、あっという間に終わる。翌日、行き交う馬車や荷車が増えてくると、賑わいと共に大きな城門が現れた。
マリーの顔がぱっと晴れる。
「着いた…! ディジョンに着いたんだ!」
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