幕間
声か、あるいは
フランスは、王が精神を病み機能しなくなるという前代未聞の悲劇に見舞われた。
その間に、王冠はイングランドの幼王ヘンリー6世の手に渡ってしまった。即位時わずか九ヶ月の赤子につき、実権を握るのは叔父のジョン・オブ・ランカスターだ。
だが、王太子シャルルがフランスに王冠を取り戻した。シャルル7世としてフランス北東部のランス大聖堂で戴冠したのだ。
モーゼのごとくランスへの道を割り拓いたのは、他でもないシャルルに見込まれオルレアンの奇跡を起こした少女だ。
だが、今度は一体どうしたんだ?
パリという巨大要塞にたった一万きりの兵で挑むなんて無謀すぎる。お得意の猪突猛進だけでどうにかなるわけがないだろうに。
それがわからぬほど、この少女は無知ではなかったはずだ。
イングランドに占領されて以来、パリは新ロンドンと
「兵力も補給も足りていない。これ以上続けるのは不可能だろう」
「補給が無いのはお貴族が主導権争いにうつつを抜かしてるせいでしょう!」
少女は拳で卓を叩くが、ジルの隣のアンジュー公は冷たく突き放す。
「大元帥リッシュモンが更迭され、今の宮廷は戦争よりも外交戦略に傾いている。これ以上の補充は期待できないし、有能な指揮官や兵を出すつもりはないのだろう」
「………」
「いくら救世主でも三流の兵だけでは勝てまい。撤退だ。いいな」
小娘に口ごたえされて、不機嫌な顔で幕舎から出て行くアンジュー公を見送りながら、少女と目が合ったジルはちょっとだけ唇の端を上げてみせた。
「いつもの猪突猛進で何とかなるとでも思ったのか?」
「思うわけないでしょう! 無茶だってくらい私にもわかるし。そもそも戦えと命令したのはシャルル陛下なのによ⁉ 兵の補充も補給もないのはどうせ誰かの差し金なんでしょ。お貴族はいっつもそう! どんな時だって己の保身が一番なんだから!」
緒戦ではオルレアンを共に戦ったラ・イールやジル自身も参戦し、イングランド軍を打ち破った。しかしいざ本丸のパリ市内を強襲という段階で、二人には撤退が命じられたのだ。
宮廷で主戦派の大元帥リッシュモンを追放し、王の寵愛を独占したのは筆頭侍従官のトレムイユだ。ジルの従兄弟でもあるこの男はたいそう嫉妬深く、パリ奪還には非協力的だった。
「これ以上お前に活躍され、自身の地位を脅かされてはたまらんというわけだな。トレムイユらしい」
「ほんっとくだらない。シャルル陛下が本当のフランス王になれば争いは終わるんじゃなかったの? どうして終わらないの。相手はイングランドだけじゃない、フランス国内の争いも、宮廷内の争いもなくならない。なぜなの?」
ジルは唖然とした。この娘、争いが終わるとなど本気で思っていたのか。
「どれだけおめでたいんだ。人と人とがいれば必ずマウンティングになるに決まっている」
「いいえ、人は慈しみあえる。思いやりを持てる。そして戦うことよりも勇気ある決断ができるはずよ」
「お前自身はそうかもしれんが、俺たちのような人間は聖人にはなれない。人はお前が考えているよりずっと汚いものだ」
「それだけが人じゃないわ」
いちいち食ってかかるわ、きれいごとばかりを並べやがるわ、癪に障る。この世が美しいと本気で信じている顔をするのだ。
なんでそんな顔ができるんだ。悲惨な戦場を見てきただろう。貴族同士の血みどろの嫉妬と抗争を見ただろう。なのに、なんで。
「虫も殺せぬような聖人面だけで戦が続けられるか! いい加減現実を分かれ! お前の理想の方がよほどくだらないからな!」
「戦なんて大嫌いよ! でも勝つまで終われないし、勝たなきゃ終わらないんでしょう? だからシャルル陛下が本当のフランス王になって、フランスが一つになれば勝てる。そうしたら戦は終わるのに、どうして一つになれないの?」
「だから、人は必ず争うもので、」
「争いを止められないほど愚かなら、神が私を遣わしたはずがない。きっと時代は変えられるわ。シャルル陛下が導いてくださる」
「今更神だと? それに陛下はトレムイユの言いなりだ。トレムイユはお前のことを———」
「もう私はいらないのね?」
「…っ」
最初は神より遣わされし者だった。その声に多くの人が心を打たれ、フランスのための戦った。生まれ育った土地を守るのだと奮い立った。
だが今、瞳を揺らしているのは救世主ではない。傷ついたただの十代の娘だ。
「…あなたに来てほしかった」
一言、そう言って少女は幕舎を出て行った。それが最後になった。
撤退した少女は兵をまとめ転戦したが、ついにパリ近郊のコンピエーニュで捕虜になる。あらゆる諸侯が莫大な身代金を提示し身柄引き渡しを求めたが、国王シャルルだけは身代金を出そうとしなかった。
『お貴族はいっつもそう! どんな時だって己の保身が一番なんだから!』
その言葉がずっとトゲのように引っ掛かって、イライラするので身代金支払いに名乗り出た。発言を取り消させなければ気が済まないからだ。
だが、一万リーヴルもの大金と引き換えにイングランドへ売り渡された少女に神が与えたのは、処刑という結末だった。
処刑。
なぜ。なぜあいつが死なねばならない。なぜ罪人になど。
内臓を鈍器で殴られたような衝撃に、ジルは立っていられなかった。これほどの動揺は産まれて初めてだ。親が亡くなった時でさえここまではなかった。
ああ、救出しなくてはならない。お貴族が己の保身以外でも行動するのを、あいつに見せつけてやるのだ。
そして思いはオルレアンで共に戦ったバタールや、傭兵ラ・イール、ザントライユも同じで、ジルが挙兵すると共に名乗りを上げた。
「ルーアンへ潜入する。同時多発で騒ぎを起こし、敵の兵力を分散させたところに突入し救出するぞ」
少女が囚われているのはイングランドの本拠地、ノルマンディ地方の首都ルーアンだ。パリに匹敵する化け物要塞の守護神は、かのジョン・オブ・ランカスターだった。
小人数に分かれて、念には念を入れて期間を空け市内に入りこみ、そうと分からぬよう潜んで待つ。
そして決行の日、五月二十七日。
囮となる小競り合いはなるべく派手に、敵兵を多く引き付けるように。そう反芻しながら少女が監禁されているルーアン城ブーヴルイユ要塞までの道順を思い描いていると、不意に「火事だ!」と外が騒がしくなる。
外に出て見ると、まだ日が沈まない空に、炎と真っ黒な煙が上がっている。
「あれはラ・イールがいる旅籠の方向だが…」
決行時刻は日没後23時のはずで、まだ20時にもなっていない。しかも火事は一か所だけではない。遠く北側にも煙が上がっている。あっちはバタールが潜んでいる方角で…
「まさか!」
振り向いた時にはもう、イングランド兵が槍をこちらに向け走ってきていた。
「クソッ!」
すぐに剣を抜き応戦するが、不意を突かれた体になり、味方は次々に倒されていく。
ばれていたのか。身分を隠して変装したり、ルーアンに入ってからはバタールやザントライユらとは会わないよう、連絡を取り合う際など何重にも対策をしてきたはずなのに、一体どこからどうやって。
「この期に及んでまだ現実を認めようとしないのが、いかにもフランス貴族らしいな」
「‼」
すぐ傍で中性的な声に言われ、身をよじって攻撃をかわす。避けきれず、腕を浅く斬られた。
「お前らの拠点は全てオレたちの攻撃を受けてる。これ以上の救出計画遂行は不可能だぞ」
オレたちと言いながら、相手は目を引くグリーンのワンピース姿の女装だ。男だとしても女だとしてもはっとするような美貌の持ち主が、両手に一本ずつ持ったダガーよりもギラギラした瞳でこちらを睨んでいる。
全て筒抜けだったのか。あの時パリ包囲戦を稚拙と言ったが、人のことを言えたものじゃないな。
「ただのイングランド兵ではないな…。俺はブルターニュのジル・ドゥ・レ男爵だ。魔女として処刑される少女について、イングランド軍総帥と交渉したい」
「不可能と言ったのが聞こえなかったのか? ジョン様は交渉には応じない。お前たちの相手はオレで終わりだ。ジョン様が自らお姿を現すまでもない」
ふわっと脚線を見せて飛びかかってくる。凶暴な野犬のようだ。ジルは両手で剣を振るが、身軽に避けられる。
こちらは長剣、相手は短剣。間合いが長いこちらが有利のはずが、避けた体のひねりを生かして瞬時にグルっと回り込まれると、左、右と連続で胸に斬りつけられた。一瞬の出来事だが、さっきとは比べ物にならないほど傷は深い。
どくどく流れ出る血の温かさはむしろ快感で、死とは安楽なのかもしれないと思う。
すると”声”がした。
『…あなたに来てほしかった』
あぁ、そうか。そういうことだったのだ。
あいつが待っていると思えばこそ、俺はルーアンまで来たのか。
誰に指図されたわけでもない。誰の駒として捨てられたわけでもない。俺がそうしたいと思い、初めて自身の
「どうだ、俺だって———」
それから目の前が真っ暗になる瞬間、つやつやの頬を膨らませたふくれっ面が見えた気がした。
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