第11話 声
目の前で犯されたマリアンヌの悲鳴と、寝台に縫い留められた姿に自分が重なる。違うのは、マリーは恐怖で声すら出せないことだ。
ああ、やっぱり死はこんなにもすぐ隣にあって、その姿は安楽だったんだ。
この極限の恐怖が終わるのなら、全部死へ受け渡してもいいと思った。
『手を離しなさい』
しかし諦めた代わりに流れ込んできたのは甘美な安楽ではなく、延髄へ直接突き刺さり体の奥から揺さぶられるような声だった。
すると足首をつかまれていた手が緩む。
『止まりなさい』
ゆらりとジェルメが近づいてくる。その手には抜身の剣が握られている。
ジェルメ…? この声、ジェルメの声だよね? でもいつもと違う…
這い起きて、ジェルメの腰にギュッとしがみつく。しかし抱きしめてくれない。
代わりにマリーの足首に手を伸ばした格好のまま静止している男に向け、その剣を突き刺した。引き抜くと心臓の近くからどっと血が溢れ、うつ伏せになったまま動かない。
「マリー、私の後ろにいて」
いつもの声に戻ってジェルメは剣を構えた。そっか、敵はまだ二騎もいるんだ。
「なんと素晴らしい…!」
すると白馬に乗った方の敵が、抑えきれないように吐き出した。顔の下半分を長髭で覆った不気味な感じのする男だが、その表情は歓喜でいっぱいだ。
「救世主ラ・ピュセル! お前をずっと探していた。それこそまさに私が追い求めた力…! 私と共に来なさい。その子も連れて行ってあげよう」
「キモっ」
男とは全く逆の感情でジェルメも吐き出した。うん、だって目がギラギラ血走って怪しいもん。
すると男が何かを投げつけてきて、ジェルメに腕を引っ張られ走る。さっきと同じ、乾いた音が大きく鳴り響いた。
「キャッ! もう何なのあれ? ビックリするよ」
「火薬よ。小さな球に薬液と一緒に詰めて、衝撃を与えると
男は次々と投げて来たが、ちっとも当たらない。すごい下手。バンバンいう音にも耳が慣れてきて、いちいち驚きもしなくなった。けれど…
「これは…」
ジェルメが袖口で鼻と口を覆う。辺りは一面煙で覆われて、先が見えないほど真っ白くなっていた。しかも、鼻にツンとくる刺激臭がする。
「私たちに当てるんじゃなく、これを狙っていたのね」
「そろそろだ。野ウサギが動けなくなったところで狩らせてもらおう」
姿は見えないが、その音量からさほど遠くにはいない。そう思った途端、マリーの体からガクッと力が抜け、ジェルメの足につかまりながら膝をついてしまう。少し呼吸が苦しい。
「え…、なにこれ。体が動かない…」
どうしよう、これじゃ走れないよ…
「マリー、しっかり。これを嗅いで。解毒効果があるから」
口元に押し付けられた布からは、酸っぱいようなかび臭いような匂いがした。よく見るとそれは、アニエスがくれたプレゼントの巾着袋だ。
「ジェルメ…、ジェルメの分は?」
ジェルメ自身は口に何も当てていない。呼吸をするのを最低限に抑えているようだけど、それじゃ幾分ももたないだろう。
風が無いから煙が流れずに、いつまでも滞留し続けている。
「あいつが狙っているのは私よ。囮になるから、その隙に逃げて。ポールが近くにいるはずだから」
そう言ってマリーから離れようとするので、足にしがみついた。
「ダメ…っ! そんなの絶対やだ!」
「マリーより私の方が体が大きいから、まだ動けるわ。大丈夫」
大丈夫って、そんな小柄な体で言われても説得力ないよ…。ジェルメの足がマリーの腕からするりと抜ける。
「ジェルメ…待って…待ってよ…」
か細い声は届かない。ジェルメの背中がかすんでいく。
いやだ、ジェルメと離れたくない。ジェルメを失いたくない。一人になりたくないよ!!
「ジェ…メッ!」
その時、煙を吹き飛ばすような大声が割り込んだ。
「そらよっと! み~んなオレ様に会いたかったんだろ? 歓迎してくれよぉ」
耳障りな声。はた迷惑で、勘違いな大男。けれどこれ以上頼りになる人がいるだろうか。
頭上に現れたのは大きな馬の腹。その更に上で長剣をぶん回し、一気に敵へと切り込んでいく。すごい、この煙の中でザントライユには見えてるんだ。
そしてザントライユが疾走した勢いで風が生まれ、煙が動いた。
「ジェルメ! ジェルメ!」
かすれた声で精一杯叫ぶ。
「マリー、おいで」
後ろに居たのはポールだ。つかまると抱き上げられ、一緒に馬に乗せてくれる。
「ジェルメが一人であっちに行ったの!」
「わかった」
わずかに開けてきた視界の中、巾着を鼻と口に当てながらジェルメの小さな背中を探す。少しずつ体の中がスッキリする感じがしてきた。
背後でまた爆ぜる音がする。
「ガハハハハ! そのウサギの糞はオレ様には通用しねぇぜ! 年中鼻づまりの鼻炎持ちだからな!」
「騎手同様に馬の方も図太いようだな」
「ギャハハハありがとよ! 褒められて伸びるタイプだからな、オレ様もこいつもよ!」
長髭男が投げる爆発音にも、ザントライユの馬はびくともしないようだ。
「いたぞ、ジェルメ!」
叫んだポールの馬首の先に、もう一人の敵。地面に押さえつけられたジェルメが必死に抵抗している。
そこに馬のままポールが突っ込んだ。巨大な生き物の体当たりに、敵はジェルメを諦め、命からがら身を翻す。
「乗れ!」
「うん!」
即座に敵の馬を奪ってジェルメも駆け出す。
殴られたんだろう、ジェルメは鼻血を出していたが、目が合うと大丈夫と笑ってくれた。
煙を背にとにかく走る。馬の体力の限界まで駆けた。どのくらい経ったのか全然分からないが、辺りは静かで追手は来ていないようだ。
「ここ、どこかしらね」
どっちの方向を向いているのかすら分からない。こんな平原で迷うなんて命取りだし、ザントライユともはぐれてしまった。
「南にだいぶズレてしまったな」
ポールが何かを取り出して方角を見ているようだ。あんな小さなもので方角が分かるのかな。
「戻るよりもこのまま軌道修正しながら進んだ方が早いし安全と思う。どうする?」
「そうしましょう。ザントライユはそのうち来るでしょうし」
「えっ、置いていくの?」
「いつもどこからかフラッと現れる人だから大丈夫」
あっさりとジェルメが言うので、体力限界の馬を引きながら歩く。マリーはソレイユを思い出して急に寂しくなった。
一人で乗馬できるよう、一緒に練習したのになぁ。
「あー、イタタ」
鼻血を拭いたジェルメだが、殴られた顔をしかめている。
「敵はブルターニュ公の手下だったか?」
「ええ。あの長髭のキモい男は知ってる」
「奴らはマリーよりも君を連れ去ろうとしていたが、心当たりはあるのか?」
「…あるわ。プレラーティという男よ」
それきりジェルメは黙ってしまった。
今夜も野宿かと思ったがポールの方向感覚は鋭く、集落に行き会うことができた。宿屋はなく農家の親戚同士が寄り合って暮らしているという感じで、空いている納屋を使っていいと言ってもらえた。こういう時は女子供がいると強い。
馬にも飼葉を与え、更にチーズと熱い湯まで分けてくれた。
「親切な人たちだね」
「そうね。お礼に明日は何か手伝いましょう」
冬に向かうこの時期、きっと自分たちが食べていくだけでも大変なのに食べ物を分けてくれるなんて、感謝しかない。
「そろそろ話してくれないか、プレラーティという奴のことを」
納屋に腰を下ろしてポールが切り出した時だ。「来ないでくれ! 迷惑だ!」と家主の大きな声がした。
「何かしら」
外に出てみて、疲労が一気に五百倍になる。
「なにも娘を嫁によこせって言ってんじゃねぇし。いいじゃんかよ一晩泊めて飯食わせてくれるくらいよぉ。どうせしみったれたモンしか食ってねぇんだろ? それで我慢してやっからよ」
こんな親切な人に向かって、どの口が言うわけ? これにはマリーも怒りを感じる。
すると剣を握ったジェルメがつかつか近寄り、鞘ごとザントライユに殴りかかった。四回、五回。それから家主へ何度も何度も頭を下げ、なんとか再度滞在を許してもらえた。
「最っっ低。このゴミ男」
ジェルメの怒りは収まらない。これじゃプレラーティという人のことを聞く雰囲気じゃない。ポールも同じことを思ったようで、ちょっとだけ肩をすくめた。
「オレ様を置いていったのはお前さんだろ⁉ あ~あ、せっかくあのちっこい栗毛馬も引っ張ってきてやったのによ」
「えっ、ソレイユを? ほんとに?」
「嘘だと思うんなら見てきな。んでオレ様の優しさにひれ伏すといいぜ」
マリーに向けて、ザントライユは右の唇を吊り上げてみせた。
「ありがとう…、それに強いし」
「カッコいいし色男だし性格も声もいいしな!」
「それはない!」
マリーの突っ込みにギャッハッハッハ! とバカでかい笑い声が納屋に割れんばかりだ。また苦情が来るのではと心配になってしまう。
「それでプレラーティはどうなったの?」
「仙人ぶった髭の奴か? 見た目年寄りくせぇのにすばしっこいのな。しつこくウサギの糞投げてきやがってよ、こっちも馬糞投げ返してやったぜ」
馬糞を素手で? ばっちぃ…、手洗ったのかな。うぅ、洗ってなさそう。
「倒したのかって聞いてるの」
「いんや馬糞は当てたが逃げられた。出したてのフレッシュなのだからな、今頃クッセェぜ! ギャーッハッハッハッハッ! んで何モンだ?」
まさかのザントライユが話を戻してくれ、今度こそジェルメは答えた。
「プレラーティこそ、ジルを貶めた犯人よ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます