第9話 リンゴの木陰で

 旅支度を整える間、バタールの屋敷に滞在させてもらえることになった。沐浴を済ませ、ジェルメに髪をとかしてもらいながらマリーは正直に打ち明ける。


「あの人怖い」

「そうよね、マリーはああいう男性は初めて見るもんね。荒くれだし汚ったないけど、腕は確かよ」


「どうしても一緒に行かなきゃならないの?」

「バタールの言う通り、ここから先は川を渡ったり道も険しくなるし、危険は増す。敵の襲撃も増えるでしょうから、用心棒の傭兵は必要ね」


「傭兵って、マリアンヌを殺した人たちと同じ?」

 ジェルメの手が止まる。


「…そうね、それが彼らの生業だからね。そんな仕事、この世界から無くなればいいのにね」

 争いが大嫌いと言っていたジェルメ。争いのない世界がいつか来るなんて、あり得るのだろうか。


 大都会オルレアンの賑わいは、まるで得体の知れない大きな口に飲まれるようだった。翌日もジェルメは旅に必要な物を買い出しに行ったが、昨日一日で人の多さに疲れてしまったマリーは、屋敷の中庭をのんびり散歩していた。


 屋敷も人の出入りは頻繁だが、ここは静かで修道院を少し思い出す。赤い実がなっているのは、リンゴの木だろう。嬉しくなって駆け寄ると、木の幹に背中を預けて眠っている人がいる。


「…バタール様?」

「ん…? あぁ、君か。これはサボっているのがバレてしまったな」

 と言いながら全く悪びれずにバタールは笑う。大貴族が外で居眠りなんて、変わった人だなぁ。


「あたしもたまに修道院のお勤めをサボってました。リンゴの木の陰で土に絵を描いて」

「うむ、そういうのも必要だ」

 ここに座りなさいとバタールは隣をぽんぽんした。


「私は戦場育ちで、屋敷の中でカンヅメになるよりこうして外で過ごす方が性に合っているんだ。雨の野営は辛かったがね」

「バタール様って粋なお方ですね。あたしは野宿は、あんまり」

「女性にはきついだろう、よく頑張ったね。そういやジルも野営が嫌だとぼやいてたな」


「そう…ですか」

 不意に出てきた父の名。浮かない顔のマリーに、バタールはやさしく続ける。


「私の父はね、大変な浮気者で有名だったんだ。どのくらいかというと、実の兄貴の奥さんを横取りしたくらいで。私を産んだのはまた別の愛人なんだが、とにかく当時は大変なスキャンダルだったそうだ」


 実の兄貴というのは先代フランス王シャルル6世のことで、つまり浮気相手は王妃イザボーという前代未聞の醜聞だった。


「そんな父親が大嫌いだった我が兄シャルル・ドルレアンは、女性には見向きもせず詩作に没頭する隠キャに育った。私も”父の私生児バタール”以外のものになろうと、若い頃は自ら戦場を駆け回ったものだ」


 もしかして、バタール様も父親がお嫌いだったんだろうか。

 ジル・ドゥ・レのせいでこんな目に遭わされたと思う反面、それでもたった一人の父親なのだから憎んではいけないと思う自分もいて、それが苦しかった。


「父は元から狂っていたわけじゃないとジェルメは話してくれるんです。でもあたしはジル・ドゥ・レのことは何にも知らないし、何を信じればいいのか分からないんです」


 ジェルメは優しい嘘をついてくれていると思う。けれど昨夜、一人涙していたジェルメの姿を見てしまい、そんなことはとても聞けない。


「ジルとジェルメは仲が悪くてね、顔を合わせれば言い合っていた」

「え、そうなんですか? てっきり、こ、恋人同士だったのかなって…。だからジェルメは良いことばかり言ってるのかなって…」


「ははっ、残念だがハズレだ。どちらかと言えばジルの方からジェルメに文句をつけて絡んでいってる感じだったかな」

「最悪…」

 貴族の男が目下の女子に意地悪するとか最低だ。


「あたしを産んだすぐ後、母は城から追い出されたんです。でもその話聞いたら、もしかして自分から出て行ったんじゃないかって思いました」

「当時から奥方とうまくいっていないのは聞いているよ」

「絶対ジル・ドゥ・レの方に原因ありですよね」


「家庭というのは人生において最も難しいパーツだからね。ジルに限らず誰もが苦労するところさ」

 一緒に暮らすことの何がどう難しいのか、マリーにはまだちんぷんかんぷんだ。


「しかし、イングランド軍への反撃を主張するジェルメに、並み居る貴族の中で最初に賛同したのはジルだったんだよ。私にはなかなか決断できなかったのだが、ジルに迷いはなかった」

 懐かしそうに目を細めるバタール。


「『俺が砦を一つ落とせたなら、お前を救世主だと信じる者も増えよう』そう言って自ら出陣し、宣言通り最初の砦を奪ったんだ。あの時のジルは、颯爽としてカッコよかったな。それを見た諸侯や傭兵もだんだんジェルメを信じるようになって、皆が一つになりこのオルレアンは守られたんだよ」


 また一つ、マリーの想像を裏切るジル・ドゥ・レの姿が露わにされた。

「強かったんですか?」

「ああ、強く、勇敢だった」

「でも意地悪だったんでしょう?」


「まあ、そういう子供っぽいところもあったが、彼だけじゃない。貴族の男なんてのはどれも嫉妬深くて、己の保身のために他人を蹴落とすなど何とも思わない奴らばかりさ」

 と、大貴族のバタールが言うのだから本当なのだろう。


「その時の私はジルを深くは知らなかったが、あんな子供のような純粋な顔ができるのを羨ましく思ったものだ。いや、純粋さを取り戻したと言った方がいいかな。あの時のはジルは一切のしがらみを忘れて、ただ理想のために駆ける戦士だった」


 ジェルメだけでなく、バタールまでもがジル・ドゥ・レは悪い人間じゃないと言う。ではなぜ父は変わってしまったのだろうか。どうして多くの子供たちを監禁し殺害などしたのだろうか。


「いたいた! こんなところに二人で。探したわよマリー」

「ジェルメ、と…」

 その後ろからくたびれきった髭面がズルズルと歩いてくる。


「聞いたわバタール、この人ギャンブルのためにあなたからお金を借りてたんですって?」

「そういえばそうだったな。返ってこないものと思って貸したが」

「ホラッ、ちゃんと返しなさいよ」


「あああああ…オレ様の一攫千金が…」

「あんたに限って一攫千金なんてありえないでょ? しっかり現実を見なさいよ」

「オレ様はやればできる子なんだぜ? やれば当たる子なんだぜ?」


「そうね、やればできるわよね。今日だってちゃんとバイト代稼げたものね。それをバタールに返しなさい」

「ヤダ…アタイやだよ! この金はアタイんだぁい! 誰にも渡すもんか!」


「バイトだと? まさかザントライユが働いたというのか?」

「ええ、一日配達で町中を駆けずり回ったものね。えらいえらい」

「アタイィ、したくてしたんじゃないわこんなこと! なのにジェルメが、ジェルメがああああっ!


「うっさいわね、いいからとっとと稼ぎを出しなさい」

「イヤアアアアア! アタイのお金盗らないでよおおおお」

「もう一度言うわ、出しなさい。笑顔でね」

「………ハイ。ウフ」


 えっ、ジェルメすごい。ザントライユに素直に言うこと聞かせるなんて。硬貨が入った袋をちゃんと笑顔でバタールに渡している。


「君のは衰えていないようだな、ジェルメ」

「それじゃ貸した金額には全然足らないでしょうけど、まずは誠意を見せたってことで今日のところは許してちょうだい。明日また働いて返すから」

「ギエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ」


 断末魔のようなザントライユの耳障りな声。それと同時に、バタールとジェルメがはっと同じ方を振り返る。


「今何か…」

「うむ、感じたよ。見られていたな」

 しかしそこにはリンゴの木が並んでいるだけだ。急に不安がマリーたちの間を吹き抜ける。


「明後日発つわ。あなたを巻き込みたくないし、この迷惑男を早く連れ出してほしいでしょう?」

「ギエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ」

「はははは、頼むよ」


 う、うるさい…。やっぱり一緒に旅しなきゃならないんだ。本当にこの人、役に立ってくれるんだろうか。


「大丈夫よマリー、この人私の言う事はちゃんと聞くから安心して」

 そう言ってジェルメはウインクしてみせた。

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