第二章 オルレアン
第6話 オルレアンの守護神
オルレアンまでは一週間の旅路だという。
というわけでシャントセを出発し、当初の目的地だったアンジュー公国の首都アンジェを横目に、南東方向への旅は続く。
アンジュー領内にはジェルメが”見張り”と呼んだ人たちがいて、時々近づいて来ては敵や盗賊に遭遇しないよう道案内をしてくれた。今日は急な雨に降られて、林の中で雨宿りし油紙にくるまってやり過ごしている。
「わあ! クッキーだ」
別れ際にアニエスがくれた巾着には更に小袋がいくつも入っていて、一日ごとにちょっとしたプレゼントになっていた。昨日は手作りの小さな白ウサギで、今日の袋には日持ちするよう固く焼きしめたクッキーが入っている。まるで魔法みたいだ。
「はいっ、みんなで食べよう」
「いいの? ありがとう」
「メルシィ」
相変わらずポールの表情は前髪と髭に隠れて見えないが、どんな時も気分の上下がないのが分かってきた。低め安定といったところなのだろう。
固いクッキーを口に含み、バターの甘さを噛みしめながら少しずつほろほろ崩れていく食感を楽しむ。
「寒いね。今日も野宿かな?」
「もう野宿はきついわね。火を焚いていても凍え死にそう。イングランド兵は真冬でもやってたけど」
「それ頭おかしいんじゃないの?」
「間違いないわ」
無言でポールも頷いている。
野宿でバキバキになった体をジェルメとマッサージし合って、翌日は盗賊だか傭兵だか、明らかに喧嘩上等な奴らとニアミスだった。森の中で息を潜めて事なきを得たが、あと少しポールが気付くのが遅ければ無事では済まなかっただろう。
そして八日目に眼前に現れたのは、ロワール川のたもとにそびえ立つ城砦だ。
「大きいねぇ…」
城と言って差し支えない堂々たる面構えだが、これで
「トゥーレル砦よ」
馬を引きながら近づくと、その大きさに圧倒される。外壁は何か所も砲撃でひび割れ欠けたままで、ここで激しい戦闘があったのだろう。一つ一つがマリーが両手を広げたよりも大きな石が天井高く組まれていて、城砦の中では馬の足音が大きく響く。
砦を抜けるとロワール川にかかるオルレアン橋で、橋のたもとでは荷を下ろす船乗りたちの陽気な歌が聞こえてくる。
街はひしめき合っていた。初めて体感する人の多さと密集した建物に、ぽかんと開いた口を閉じるのも忘れてマリーは見入っていた。
すぐ横をガラガラと盛大に馬車が走り抜ける。よく通る声で物売りたちが目の前に商品を突き出してくる。通りを歩く女性は胸の下で紐をキュッと絞ったワンピース姿で、フリルのついた頭巾や個性的な巻き方のターバン、エナン帽と呼ばれるヴェールを被った人など様々で、これがお洒落というものなのだろう。ブルターニュの田舎町ではまず見ない。
「マリー、見とれちゃった?」
「え」
「何度も呼んでたのよ。このままバタール様の屋敷へ向かうわ。待たされるだろうけど、もう少しだけ頑張ってね」
この大都会オルレアン市の総督という大貴族が、あたしみたいなみすぼらしい田舎娘を助けてくれるんだろうか。
屋敷を訪ねると、ジェルメの言った通りたっぷり待たされた。ようやくたどり着いた屋根の下の安心感と、ゆったりした椅子が心地よくて、揺り起こされるまで自分が眠ってしまっていたことに気付かなかった。
イングランドに囚われていたオルレアン公シャルル・ドルレアンに代わり、総督としてこの都市を守り抜いたのが、腹違いの弟
「今はバタール様ではなくデュノワ伯とお呼びするべきなのかしら」
「いいや、バタールのままで良いさ。また君に会えるとは思っていなかったな」
大貴族だが飾らぬ気さくさで、バタールはジェルメとの再会を素直に喜んでいる。
「ジルのことは残念だった。彼が亡くなった日にこうして君が現れるとは、神の思し召しなのかな」
「えっ⁉ 死んだですって?」
「ああ、知らなかったのか。今朝が処刑日なのだよ」
ジェルメが口元を覆う。その手は震えていた。
ジェルメがこんなにも動揺するなんて…。父が死んだことよりも、マリーにはジェルメの方が心配だった。
「この子は、ジルの娘。マリー・ドゥ・レなの」
「…そうか、込み入った話になりそうだな。食事はまだだな? 用意させよう」
「ありがとう。朝から何も食べてないからペコペコよ」
わざと明るく取り繕っているのは明らかで、そんなジェルメにマリーは何もできない。
長い食卓には果物や冷製のパテがふかふかのパンと共に並べられていた。席につくと、銀細工の装飾が美しい杯でワインと果汁が提供されたが、ジェルメは手を伸ばそうとしない。膝の上に手を重ねて、自分の手をじっと見つめている。
「ジェルメ、大丈夫?」
見上げるマリーの丸い瞳に、ジェルメは何日も風呂に入れず長旅でもつれた黒髪を撫でてくれた。
「ごめんね、悲しいのはあなたの方なのに。ジルがこうなるのは分かっていたのだけど」
「あたし、別に悲しくないよ。一緒に暮らしてたわけじゃないし、父親なんてあたしの中にはいなかったし。それよりジェルメの事が心配だよ」
「マリー…」
椅子と椅子の距離がもどかしい。あたしを守ってくれているジェルメの悲しみを癒せるのなら何だってしたい。本気でそう思った。
修道院の生活では自分が生きるので精一杯だったから、人のために何かしたいなんて感情が湧いてくるなんて少し戸惑う。けれど今は———
バタールが着席すると温かい料理が運ばれてくる。
「さあ、遠慮せずに食べなさい。事情を聞かせてもらおうか」
じっくりと火を通した鶏肉は簡単に骨から外れる。バタールは、肉と付け合わせのスイカの酢漬けを一緒に頬張りながら、ジェルメに促した。
「逮捕前のジル・ドゥ・レからマリーの事を託されたの。ブルターニュ公が命を狙うだろうから守ってほしいと。レ家の領地はブルターニュ領とアンジュー領にまたがっていて、だからアンジュー公がマリーを援助するはずだったのだけど、今は助けられないと急に断られてしまって。こうしてあなたを頼りにオルレアンまで来たの」
「すると君は逮捕前にジルと直接会って話したわけか?」
「ええ。罪を告白するよう話して、受け入れてくれた。ジルをあんな風にさせてしまったのは私のせいだから」
食器が皿に当たる音が響く。相変わらずジェルメは全く手を付けようとせず、ポールとバタールは食べ続けている。かく言うマリーもごちそうには我慢できず、肉の旨味を噛みしめていた。
「だからと言って、誰も君を責められまい。君自身もな」
「そう言ってくれてありがとう、バタール。ジルのために娘を守りたい。そう思って引き受けたけれど、マリーに出会ってからジルの事は関係なく助けたいと感じたの。あの時と同じよ。あなたなら分かるでしょう」
縋るような視線に、バタールはワインで口を潤すと、一つ息をついた。
「オルレアンの戦いか。イングランドに苦しめられている市民を救いたい。フランスを救いたい。その一心で君は私の元へやって来たのだったな」
「私、変わってないでしょう? 見た目も」
「さすがに十一年前と同じとは答えられんが、そうだな、その声は変わっていない。君の話を聞いていると、どうしても動かずにいられなくなってしまうよ」
十一年前、オルレアンの戦い。あの砦につけられた傷はその時のものなのだろう。ジェルメとバタールが、ここでイングランドと戦ったのだろうか。
「そう思わないかポール? 君もあの時、共に戦っただろう」
バタールが話を振ったのは意外な方だった。
「えっ? そうだったの? ていうか二人は知り合いなの?」
?が三つ浮かんだジェルメ。ポールは「えぇまぁ」となにかモゴモゴ言うが、モジャ髭のせいでよく分からない。
「それ初めて知ったわよ。どうして今まで言わなかったのよ?」
「別に、俺の過去なんてどうでもいいだろう」
「よくない。秘密にされるなんて心外だわ」
「まあまあ。しかしな、今回は君の声に従うわけにはいかないのだよ。こちらにも少しばかり困った事情があってね」
ポールに食ってかかっていたジェルメが、クルっとバタールを向く。
「困った事情って?」
「アジャンクールの戦いで捕らえられていた我が兄が、解放されたことは知っているだろう?」
四半世紀も前のことだ。
フランス北部のアジャンクールでフランス軍とイングランド軍が激突した。わずか八千人のイングランドに対し、フランスは五万もの兵力で待ち伏せたが、その総大将がバタールの兄、オルレアン公シャルル・ドルレアンだ。
だが圧倒的有利だったはずの戦は大敗した。イングランドの犠牲はわずか七百に満たないのに対し、フランスは半数以上を失った。あまりの捕虜の多さに、イングランド王ヘンリーが殺害を命じたほどだ。シャルル・ドルレアン自身も囚われ、以来四半世紀をロンドンで暮らしていた。
返還要求をずっと拒み続けてきたイングランドだが、ここへ来てついに人質を手放すに至ったのだ。
「今や、イングランドにフランス側の要求を拒む力は無いということね。素晴らしいわ」
「そして、四半世紀ぶりに帰還したかつての総大将に
大元帥という権力者で、つまりは向かうところ敵なしのリッシュモンとは、マリーの命を狙うブルターニュ公の実弟である。
フランスのお偉方はいつもこうだ。誰かが力を持てば、他の誰かがそれを追い落とそうとする。一昔前にもアルマニャック派とブールゴーニュ派に分かれて、貴族同士が内乱を繰り広げていたものだ。
「つまり、かつてのアルマニャック派であるオルレアン公やアンジュー公VSブルターニュ公の図式が出来上がりつつあるというわけね」
「ああ。そういうわけで今、表立ってブルターニュと争うわけにはいかないのだよ」
ジェルメが両手でテーブルを打ち、立ち上がる。
「そんなことを言わないで! マリーは命を狙われているのよ、政治と命を比較なんてしないで!」
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