幕間

大いなる奇跡…?

 ロワール川の岸辺に立つ、巨大なトゥーレル砦。四つの塔を持ち、前庭と中庭をこしらえた小さな要塞と言っても差し支えないほど堅牢な建造物だ。

 川を挟んだ対岸のオルレアン市への橋頭堡きょうとうほであるはずが、そこにかかる橋はなかった。


 オルレアンの眼前に現れたイングランド軍により、この橋頭堡はわずか一日で奪われてしまった。その際、街への侵入を阻むために住民たちが自ら破壊したのだ。それから周囲には十二もの砦が築かれ、半年間にわたり市は包囲されている。


 そしてついに総攻撃をかけようと、イングランド軍はトゥーレル砦から橋を作り始めた。橋がかかれば、これまでの籠城戦で弱り切ったオルレアンはもうひとたまりもないだろう。


 イングランド軍は強い。

 ジル・ドゥ・レが考えるに強さの第一は、急逝した前王ヘンリー5世が生涯をかけて追求した火力だ。これでカーンやルーアンというノルマンディ地方の主要都市はあえなく陥落させられ、爆音がフランスを恐怖に陥れた。


「いやぁ、これ調達するの苦労したよ。王太子殿下がなかなか首振ってくれなくてさぁ」

 命からがら戻ってきたオルレアン総督代理、バタール・ドルレアンがドスン!と床に置いたのは、60ポンド(約28㎏)もある鉄の砲弾だ。


ゴダンイングランド野郎のより大きいよ。ホントにこんなのが飛ぶのかな?」

 からからと笑うバタール。だがジルはまだ笑う気にはなれない。


 強さの第二は、組織力。これもヘンリー王がたゆまぬ努力で築き上げたものだ。厳しい軍律を末端の兵にまで課し、身分の貴賤を問わず誰であれ一切の妥協を許さない。だからおのずと皆がついていくし、総帥が弟のジョンに代わっても指揮系統に乱れは生じていない。


 対するフランスはといえば、高貴な者は戦の帰趨そっちのけで隙あらば指揮権争い。軍議はお互いに牽制と嫌味の応酬で、さほど苦労もせず軍の中枢ポジションに就いたジルなど目の敵にされていて、嫉妬のトゲをかわすのにはもう慣れた。

 だからイングランドに勝てるわけがない。そう思っていたが———


『運命を変えましょう』

 一人の少女のが、フランス軍を変えた。


『今こそ悪鬼イングランドの手から、フランスを救うのです』

 神の声だの理想だのをきんきん叫びながら、戦えもしないくせに鎧に身を固めて戦場に出て来る、目障りな娘。


 短く切り揃えられた小麦畑の髪を見るたびに、イラついて仕方なかった。シャルル王太子たってのご所望でやって来たらしいが、何ゆえに意気がった小娘をこちらが取り計らってやらねばならないのか。


 だが、剣、槍、弓、戦斧、思い思いの武器を取った傭兵や兵士の理想に燃えた目は、そして一つになって向かう力は、明らかに今までと違う。


『フランスを救うのです!』


 少女が白地に百合の紋とキリストが刺繍された旗を空高く掲げると、その声に導かれた彼らは次々と周囲の砦を攻略し、今まさに最後の橋頭堡、かつてたった一日で奪われたトゥーレル砦を落とさんと猛攻に次ぐ猛攻だ。


 だが相手も死に物狂いの形相で、城砦の上から雨のように矢を降らせる。どころか大石や熱した油や、殺された味方の死体まで投げつけてきた。あまりの激しさに戦況の把握も追いつかず、一旦退いて立て直そうと上層部が退却命令を出した時である。


『ここで退いてはいけません! みんな、私に続けぇ!』

 少女が旗を手にしたまま、猪突猛進で最前線へと駆け抜けていく。


 退却命令を無視しやがって、なんて頭の悪い奴。それにあんな目立つ旗をたなびかせたら、集中して狙われるに決まってる。


 ヒュン、と嫌な音がした。戦場の喧騒の中で、なぜかそれはジルの耳に大きく響く。一直線に飛んできた矢が、少女の鎧を突き抜けて胸に刺さる。城壁を上る梯子ハシゴにかけた手が離れ、少女は仰向けになり落下していく。


 瞬間を切り取った絵画のように見えた。しかし絵画とは違い、少女の体はみるみるうちに地面へと近づき、このままでは体が叩きつけられて———

 気付いた時には、下にいる男たちが受け止めた小さな体を、奪い取るように抱えていた。


「フランスの魔女を討ち取ったぞぉ!!」

 城砦の上から歓声とともに、更なる矢が放たれる。一直線に向かってくる殺意から庇うように、ジルは動けない少女を自分の胸の下に閉じ込めた。背中に矢を突き立てられるのを覚悟して、身を固くする。


 だが即座に盾を並べた麾下きかによりそうはならず、後退しながら幕舎へ辿り着いた。離れた場所にある身分の高い貴族たち専用の幕舎だ。


「ジル・ドゥ・レ…? なぜあなたが私を助けてくれたの?」

 お仕着せの医者の手当を終えた少女は、身を起こしてジルを向く。髪が短いのを除けばどこにでもいる平凡な娘だ。


 軍議に呼ばないのは常で、恫喝は日常茶飯事。食事を回さなかったり服を裂いたりしていたのは決してジルだけではないが、もちろん故意にやっていた自覚はある。

 なのになぜ。どうして身を呈してまで守ろうとしたのだろうか。


「…救えと呼ばれた気がした」

「え? 誰から?」

「分からない。けれど聞こえた。乙女ラ・ピュセルを救え、死なせてはならぬと」

「えーとあなた、頭大丈夫?」


「ぐっ…! おかしいのはお前の方だろう! 『フランスを救え』と神の声が聞こえたとか! 会ったこともない王太子が下級貴族に変装していたのを一瞬で見破ったとか!」

「へぇー、私の事に随分と詳しいじゃない。さては興味あり?」

「くだらんな。下賤の者が減らず口を」


「そんな下賤の者に色々ネチネチ意地悪なんてご執心なことで。おかげで私も、あなたの事にすっかり詳しくなったわ、ジル・ドゥ・レ。あなたには自分というものがない。私と同じ。だから神の声が聞こえたのよ」

「なぜ俺がお前などと? 無礼にも程がある」


「あなた、今まで自分の意思で行動したことがある? 周りの大人からあなた自身の精神エスプリを認めてもらったことがあった? ずっと大人に合わせて、したくもない役割を演じてきたのよね。私もそうよ、本当は争いなんて大嫌いだもの」


 少女の目は憐れんでも蔑んでもなく、むしろ喜んでいるようだった。まるで同類を見つけたとでも言いたげな。そんな感じがして余計に腹が立ち、思わず少女の頬をひっぱたいた。

「お前なんかに俺の何が分か———」


「いったぁぁぁ——い! ちょっと私、矢が刺さったのよ⁉ なのにビンタするとかありえなくない?」

 と、次の瞬間にはジルの頬に平手が飛んできていた。


「いっ…痛いじゃないか!」

「あーらいいザマだわ! どうせ高貴なお坊ちゃまは親からもぶたれたこと無いんでしょうし」

「このっ!」

 今度は頬をおもいきりつねって横に引っ張ってやる。


「ひひーんら、わたひのほっぺらよく伸びうかられんれん痛くないのんねー」

「ありえんブサイク顔になってるからな」

 するともの凄い速さで口髭を捕まれた次の瞬間、ブチブチッと音が頭蓋骨を伝い、痛みが顔面全体を襲った。


「~~~ッ‼」

 たまらず両手で顔を覆う。こんな痛み、感じたことない。あまりのひどさにうっすら涙まで出てきた。

 二度と髭は生やすまい。心に固く誓いながら短い髪の毛をつかもうとするが、するりと避けられる。


「こんのパワハラ暴力男! あっったま来た! もう我慢できない。ジル・ドゥ・レ最低かよ! 今すぐ突撃してやるわ!」

「ッっぅ、ハアッ⁉」


 少女はずんずんと大股で幕舎を出ていく。お前、矢が刺さってたんじゃなかったのかよ。

「ていうか戦はお前の鬱憤晴らしじゃないからな!」


 慌てて後を追うが、少女は既に白地に百合の紋とキリストの旗を手にして、高く掲げる。

 その瞬間、彼女の背中に天使の羽根が広がったのがジルの目に映った。


「救世主が生きているぞ…!」

「俺たちのために旗を振ってくれてるんだ!」

「救世主さまだって頑張ってんだ、俺たちももうひと暴れしてやろうぜ!」


 違うぞ、これはただウサを晴らしたくて旗振っただけで、そんなのでは…!


 などと言ったところでもう意味がないだろう。波のように伝播する希望とともに、疲れ果てていたフランス軍がみるみる生気を取り戻していくのが分かる。

 そしてときの声を上げ、城砦に躍りかかりぐいぐいと食いついて、敵が何度振り払おうともしつこく噛みつき飲み込んでいく。


 バラバラだったフランス軍を一つにまとめ上げたのは、まぎれもなく少女の声なのだ。たとえムカついただけでも。


 おい、一体どこが神の声だって? 


 だがこの勢いならイングランドに負ける気がしない。ああ、勝てる。

 確信に胸が熱くなると、まだヒリヒリする鼻の下をそっと撫でてみた。

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