第5話 明日へ立ち向かうあなたを

 アンジュー公国の都アンジェへ向かう旅は、初日の夜は運良く農家の納屋を貸してもらえた。

「うわあ! 牛くさーい!」


 たっぷりの藁は日なたのいい匂い…ではなく、ちょっと残念だったが、翌日の野宿に比べれば全然マシだった。

 馬はずっと走れるわけではなく、途中降りて引いて歩かなければならない。野宿になったのはマリーの歩みが遅く、休憩も多く取ってしまったからだろう。ジェルメもポールもそれに合わせてくれたと思うと、申し訳なさでいっぱいになる。


「今日はよく頑張ったわね。こんなに歩いたのは初めてでしょう?」

 なのにジェルメは優しい。

 アニエスからもらった干し肉を焚火で炙って、パンと一緒にかぶりつく。両方とも硬くて、歯も心も折れそうだ。


「ごめんなさい、明日はもっと頑張るね」

 燃える火が照らす範囲外は漆黒の夜だ。曇っていて星も出ていない。


 こんな暗闇の中にぽつんと外に出たことなどないから、最初は絶対眠れないと思ったが、一日中馬に揺られ歩いた疲労でいつの間にか寝落ちていた。ジェルメが隣に居てくれたのもあるだろう。


 頑張ろうと思ったのに、翌日はひどい筋肉痛に襲われて半泣きだった。けれどジェルメが薬草をすり潰した湿布をふくらはぎに貼ってくれたり、潰れた足の裏のマメを保護してくれたから、これ以上弱音なんて吐くものかと耐えた。

 ポールは相変わらず喋らないので、何を思っているのかよくわからないが、いつも少し先を行き休憩場所や安全を確かめてくれている。


「この辺りはお父さまが生まれ育った場所よ」

 馬上で昼食のリンゴをかじっていると、不意にジェルメが言う。視線の先にあるのは、遠くに見える円柱状の物見塔だ。


「あれがシャントセ城なのね。ジルが生まれ育った家」

 今度はマリーに言ったのではない。一人思い出に浸っているような感じだった。


 昔の仲間だというが、どういうきっかけで何の仲間だったのだろうか。しかし聞いてもいいものか、まだその勇気はない。


「でもジルったら、この辺りは売っちゃったのよね。自分の生家なのに」

 今は、あの城はアンジュー公の軍事要塞らしい。


 そんなわけで三日ぶりに屋根の下で休もうとシャントセの旅籠はたごに腰を下ろしたところで、それは来た。いつ入れらたのか分からないが、ドアの下に手紙が挟まっていたのだ。


「どうしてあたしたちがここにいるって分かったのかな?」

「ここはもうアンジュー領だから、見張られているのでしょう。逆に言えば敵には襲われにくいわね」


「見張る? アンジュー様は味方なのに?」

「見張られているのはマリーじゃなくて、私。こういう特殊な事情の時にはよくあるのよ」

「? アンジュー様はジェルメの主君なんでしょ?」

 しかし手紙を読んだジェルメの顔色がさっと変わる。


「なに? 何て?」

 横で寝台に腰を下ろしているポールも、前髪に隠れた目でこっちを見ている。


「…アンジュー公からの伝言で、今はアンジェに来てはならない。助けることはできないと」

「えっ」

 ということは、行き場を失ったってこと?


「なぜだ?」

 すかさずポールが問う。

「分からない。ここには書いてないけれど、もしかするとブルターニュ公が何か仕掛けてきているのかも」

「あり得るな。アンジューとブルターニュは、二年前には戦争寸前までこじれているし」


「でもっ、それじゃこれからどうするの? どこへ行くの?」

 ジェルメはマリーの手に自分の手を重ね、しばらく考えていた。こんな時でもマリーを気遣い、安心させるように手を握ってくれる。


「オルレアンへ向かいましょう。昔の仲間がいるわ」

「オルレアン…」

 それはブルターニュからアンジェをも越え、遥か東へアンジュー領を抜けた先に位置する大都市だ。


「長くイングランドに捕らえられていたオルレアン公シャルル・ドルレアン様は最近解放されて帰国されたのだけど、その間ずっと総督代理を務めていたバタール様とは知り合いなの。彼なら庇護してくれるかもしれない」


 オルレアン公といえばフランスでは誰でも知っている、王家と最も近しい血筋の大貴族だ。そんなすごい人が助けてなんてくれるのだろうか。それにそんな人と知り合いなんて、ジェルメって一体何者なんだろう。


「大丈夫、きっと何とかなるわ。思ったより長旅になりそうだから、今日は美味しいものでも食べましょ」

 そう笑って街の小さな食堂へ連れて行ってくれた。


 初めての野宿では夜があんなにも不快で怖いものだと知り、がやがやと賑わう人の声すら今はほっとする。


「はぁ、生きててよかったぁ…」

 そして出来立ての温かい食事というのは何よりのごちそうだ。ほわほわっと上がる湯気になんと心弾むことか。ずっと顔に浴びていたいくらいだ。

 野菜が溶けるまで煮込んだ肉のシチューは絶品で、束の間何もかもを忘れてマリーは食べるのに没頭する。


「あー、おいしいねぇ」

 ジェルメも、そして髭モジャで表情が見えないポールも幸せそうな顔をしているのが分かる。

「すみませーん! さっきあそこのテーブルに運んでたのと同じ煮込みをこっちにも。あとリンゴ酒おかわり」

 わけてもジェルメはよく食べ、よく飲んだ。


「その位にしておけよ」

 ポールが止めても何のその。

「だーいじょうぶだいじょぶ! こんなのじゃぜ~んぜん酔わないから。それよりあなたも飲みなさいよ」

 陽気なジェルメと対照的に相変わらずのポールは、酒を一滴も口にしない。


「ポールは私の監視役なのよ。いっつもクソ真面目でね、面白くないでしょ?」

 鼻にシワを寄せたジェルメに言われ、ポールはちょっと肩をすくめる。

「あっちにこっちに振り回される方の身にもなってほしいもんだ」


「いーじゃない、毎日机に固定されて同じ作業を延々繰り返す人生より楽しいでしょ?」

「俺はそういう人生も悪くないと思ってたんだけどな」

「あたしも…」


「なによな~によマリーまで! 人生これからなんだからね、こうパーッといきましょうよパーッと! でもってガーッ!と熱くなったりキューッ!となったりしてね」

「暑苦しい奴」

 ポールがボソッと言うのが面白くて、マリーは久しぶりにお腹から笑った。


 そして、泊まる部屋は三人一緒だ。

「あ~いい気分ー! マリー、一緒に寝ましょ」

 寝台は二つだからどうするのかと思っていたけれど、ジェルメと一緒に布団にくるまった。もう一つの寝台にはポールが静かに収まっている。


「不安?」

 鎧を脱いで、薄着で密着してきたジェルメの体温になんだかドキドキしてしまう。

「うん…、アンジュー様には断られちゃったし。オルレアンではうまくいくのかな」

「そうよね。けど必ず守ってあげるからね」

 ジェルメを信じたい。だから知りたい。


「ねぇねぇ、ジェルメって何歳?」

「もうすぐ三十。おばちゃんよ」

「えっ、そうなの? 全然見えない。二十歳くらいかと思ってた」

「あっははは! それはない! マリーのお母さんでもおかしくないわ」


ジェルメーヌだから、お姉さんがいるの?」

「ええ。殺されてしまったけど」

 思わず息を飲んだ。


「私の身代わりに殺されたわ。だから今のマリーの気持ちはよく分かるつもり」

 額と額がくっつく。

「不思議ね。見た目も年齢も全然違うのに、死んだ姉とマリーの姿が重なるの。何があっても今度こそ守りたいって」

「まだ出会って何日かしか経ってないのに?」


「昔、ジルからあなたのことを聞いていたから、前から知っているような気になってるのかも」

 父があたしのことを? そんなことあるわけないのに。きっとジェルメが優しい嘘をついてくれたんだ。少なくともマリーには父親の記憶は無かった。


「お父さまのこと、良くは思ってないわよね。けれど私がマリーと出会えたのは、あなたがジル・ドゥ・レの娘だからよ。どうか、自分の血筋を恨まないでね」

「…ジェルメがそう言うなら努力する」


「ありがとう。私ね、争いが大嫌い。武器なんて全部この世界から無くなればいいのにと思ってる」

 それから悲しげに瞳を閉じた。


「ずっと、ずうっと前からそう。そう思って戦ってきたけど、未来は変わらなかった」

 初めての野宿で真っ暗な中にぽつんと一人取り残されような、そんなジェルメの声。


「けれど今は、マリーの未来を誰にも奪わせたくない。その為になら私はもう一度戦えるし頑張れる。だからつらい時は泣いてもいいから、一緒に行きましょう」

 そう言ってくれるのは、やっぱりあたしがジル・ドゥ・レの娘だからなんだろう。


 けれど嬉しかった。 

 涙が一筋頬を流れて枕に落ちる。胸に渦巻いていたものがさらさらと吐き出され、代わりに温かなろうそくの炎が灯る。

 それは誰かに守られ、大事にされるという初めての感じだった。

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