第3話 朝日への旅立ち
「一人では
それは育児放棄したうえ、少年を監禁し殺害という許しがたい犯罪を犯した父のイメージとは、あまりにかけ離れた言葉に思えた。
「私もアニエスさんも、お父さまとは昔の仲間だったのよ。確かにジルは変わってしまって、犯罪に手を染めたのは事実だけど、決してそれだけが彼の姿じゃない」
ジェルメの両手が、父と同じ黒髪の下の頬を包む。
「逮捕の直前、ジルはあなたを私に託してくれた。だから私はあなたを守り抜いて、いつかあなたが受け入れられるようになったら、彼のことを伝えなきゃならない」
「けど、そのせいでジェルメやアニエスさんも危険な目に…。マリアンヌはあたしの代わりに…」
「マリーは何にも悪くない! あなたが悪いことなんて何も無いんだから!」
ジェルメが抱きしめてくれる。ごちゃ混ぜになった色んな感情が湯の温かさに溶けだして、マリーは声を上げて泣くしかできなかった。
一緒に過ごしたことなどほとんどない父親が犯罪者になったせいで、なんでこんな目に遭わなきゃならないの。
どうしてマリアンヌが、修道院のみんなが死ななきゃならなかったの。一体何をしたっていうの。
「大丈夫。大丈夫よ。マリーのせいじゃないから」
そう言ってジェルメはずっと髪と背中をさすっていてくれた。
涙が枯れる頃にはすっかり湯がぬるくなってしまい、寒い寒い言いながら二人で笑って体を拭く。アニエスがチュニックを貸してくれて、マリーが着るとちょうどワンピースの丈だ。
棚に囲まれた部屋ではなく、キッチンの小さなテーブルでポールが一人、椀をあおっていた。風呂上がりの二人に席を譲ってくれる。
「しばらく周りを見張っているから先に休むといい」
「ありがとう。あなたも休んでね」
出て行くポールを見送るなり、アニエスが口を開く。
「アンタ、よっくあんな無口で不愛想な男と組んでられるねぇ?」
「お互い余計な気遣いは無用だから、見た目より楽よ」
「口が堅くなきゃアンタらの仕事は務まらないだろうけどさ。で、どうなんだい?」
「追手の様子を見てアンジェへ出発するわ。明日か、明後日」
「そうじゃないよ。あのポールとはどうなんだいって聞いたんだよ」
「どうって⁉ ただの仕事仲間よ」
「嘘をお言い。あいつと組んでもう長いじゃないか。お互いにいい歳して、何もないわけ無いだろうに」
「何もないわよ」
「アンタの気持ちは分からなくもないよ。けどもうそろそろアンタだって———」
「そうだ、ちゃんと自己紹介をしていなかったわね、マリー。私とポールはね、アンジュー公家の家臣なのよ」
強引にジェルメは話題を変えてマリーの方を向いた。
「マリー、あなたの家、レ家の主君は誰か知っているわね?」
「ブ、ブルターニュ公」
「そうよ。じゃあレ家がフランス王をも凌ぐ大領家ということは知っている?」
「知らない…」
「あなたが相続するレ家の所領は、ブルターニュ領と隣のアンジュー領にまたがっているの。それを独占したがるブルターニュ公はアンジュー公と対立していてね。簡単に言えば両者は仲が悪いのよ。そしてジル逮捕の裏にはブルターニュ公が絡んでいる」
なに? 急に所領とか王様とか出てきた。あたしには貴族の娘らしい生活なんて一つもなかったはずなのに。
「レ家の所領を奪うために、ブルターニュ公はジルを貶め逮捕したの。そして次は相続人のあなたの命を狙っている。だから敵対するアンジュー公はあなたを守ろうとしているの。もうレ家だけの問題ではなく、国同士の戦争にまで発展するかもしれない話なのよ」
ジェルメは唇を噛む。
「嫌な話よね、大人が勝手に争って。でもレ家の所領はマリーが相続すべきものだし、要らないと放棄すればそれで終わる話でもないの。あなたはレ家の一人娘として運命と対峙しなければならない」
子どもは親を選べない。望んでジル・ドゥ・レの娘になんか産まれたわけじゃないのに。ジル・ドゥ・レの娘になって何か幸せだったことがあった? 感謝したいと思ったことなんてない。閉ざされた修道院で楽しみもなく灰色の毎日を過ごしてきただけ。
「いらないよ…、あたしは一生修道院暮らしで構わないし。やっぱりあたしのためにマリアンヌは殺されて…」
言いながら、あそこにはもう戻れないのだと分かっている。たとえ他の修道院に移ったとしても、きっとまた同じことが起こる。
ジェルメやアニエスのように、自力で何かできるわけじゃないマリーが一人で生きていけるほど、世の中は優しくないだろう。人がすぐ死ぬこの世界を、目の前でまざまざと見せつけられた。修道院の祈りの中にしかなかった死が、目と鼻の先に実態を伴い現れたのだ。
命の重みが羽根のように軽いとすれば、これまで囲われた中で生かされただけでも幸運なのかもしれない。
「立ち止まれば次は死ぬしかない。もう戻れないのなら、前に進むしか道はないわ。あなたはもう一人じゃない。私とポールがそばについてるし、絶対に途中で見捨てたりなんかしないから」
ジェルメの声は不思議だ。特別記憶に残る声質というわけではないのに、耳に入った瞬間に言葉が血になって全身を流れていくように、指先にまで染みわたる。
羽根のようなこの命の重みを手放さないで。ジェルメの想いが伝わってくる。
「…うん」
だから頷いた。信じたいと思った。
小麦畑の髪を揺らして、ジェルメはまたマリーを抱きしめる。
翌朝、追手がまだ離れていかないとポールから聞かされ、出発は延期になる。
「しばらく英気を養っていくといいさ。今まで修道院の粗食しか食べてなかったんだろう? それじゃ年頃の女子には足りないさ。肉と卵マシマシだよ!」
と、アニエスは自慢の煮込みをてんこ盛りにしてくれる。
「このお肉やわらかくておいしー! こんなお肉初めて」
ワシワシ食べるマリーに「そうかいそうかい! 嬉しいこと言ってくれるじゃないか」と目を細めた。
アニエスの元には薬を求める客が次々と訪れ、皆それぞれ野菜や肉を持参するので食生活はかなり充実している。
「評判の良い魔女なんだね」
「ブルターニュ公の命を救ったことで一目置かれてるのは本当でね、かなり高名な”魔女”なのよ」
美味い飯はそれだけで人を心も体も元気にする。これも料理上手な魔女の魔法かもしれない。
「それじゃマリー、頑張るんだよ」
「うん。ありがとうアニエスさん。忘れないよ」
四日後、だぶついた尼服を動きやすく仕立て直してもらった服を身に着け、アニエスに別れを告げる。
「これを持ってお行き。中身は開けてからのお楽しみだよ~ッヒッヒッヒッ」
イタズラっぽい顔でマリーに巾着袋を渡すと、今度はジェルメに向かって声のトーンを落とす。
「気を付けるんだよ。あの男はアンタに執着していたから、必ず現れる」
「分かってるわ。十分に用心するから」
目指すのはアンジュー領の都、アンジェ。
朝日が森のシルエットを金色に照らす。その方角へと向かう旅は、追手に警戒しながら野宿や旅籠を経由していくという。マリーに旅の経験はもちろんない。
「でもあたし、頑張るからね」
「うんうん。アンタにはきっといい事が待っているさ」
アニエスが頭をぐしゃぐしゃして額にキスしてくれる。それがたまらなく嬉しかった。
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