第2話 荒野に赤い魔女

「私はジェルメよ。よろしくねマリー」

ジェルメーヌ?」


 フランスではよくある名前を名乗った女性。金属の胸当ての感触を背中に感じながら、マリーは馬に揺られていた。男性の方もありがちな名前でポールだという。癖が強くまとまらないモジャ髪に目が隠れていて、下半分も赤茶の髭モジャなので、どんな顔で何歳くらいなのか全くわからない。


 あまりの恐怖に戸棚の中で失禁してしまっていて、抱き上げてくれたポールにも一緒に馬に乗せてくれているジェルメにも悪いなと思ったが、気にしないでいいと二人とも言ってくれた。


「落ち着いて聞いてね。あなたのお父さまは逮捕されたの」

「へ?」

 ほとんど一緒に暮らしたことのない父の名はジル・ドゥ・レという。この地方を統べるブルターニュ公に仕える貴族だ。それがいきなり犯罪者とは。


「一体何をしたの?」

 ジェルメは話すのを少し躊躇ったようだった。

「…身分の低い少年たちを何人も監禁して、殺害したの」

 ぞっとする言葉の羅列に声を失う。詐欺や金銭搾取ではなく、子供を殺した。


「彼が犯罪に手を染めてしまったのは事実だけど、悪魔の道へと貶めた人がいるの。私はそいつを許さない」

「けど…そんなことできるって、正気じゃないよね」

 恐ろしいは恐ろしいが、やはりジル・ドゥ・レはマリーにとって家族ではなく他人だった。


「逮捕前、ジルはあなたを私に託してくれたの。ずっと離れて暮らしてきた娘だけは守ってやってほしいと。彼の中で、あなたたちは親と子なのよ」

「もしかして、襲われたの原因は父親なの? 一緒になんて暮らしたことないのに、どうしてあたしが巻き込まれなきゃならないの⁉ そんなの迷惑だよ!」


「そうよね、いきなり受け入れろという方が難しいわよね」

「うっ…ううぅぅ! マリアンヌはあたしの代わりに…っ! 同じマリーだったから殺さ…」

 嗚咽でそれ以上は言えなかった。


 イケメンに修道院から連れ出してもらうのを夢見ていたマリアンヌ。なのにもう永遠に叶わなくなってしまって、どうしてあたしが外の世界へ向かっているんだろう。こんなの誰も望んでない。


「起こってしまったことは変えられないわ、マリー。彼女のことを忘れないでいてあげましょう」

 後ろからマリーのお腹を抱えるジェルメの腕に、少し力がこもる。


「追手が来るぞ、どうするジェルメ」

「予定通り向かいましょう」


 しばらくして到着したのは、草原の中にぽつんと立つ古びた風車だった。近くには大きな母屋があり、ジェルメが扉を叩く。

 すぐに開けたのは、見事な赤毛のたっぷりした髪を垂らしたおばさんだ。


「お入り。どうだった?」

「ブルターニュ公の傭兵に既に襲撃されていたわ。マリーだけは何とか助けられたけど」

「そうかい…。大変な目に遭ったね。さあ、こっちへおいで」


「アニエスさん、申し訳ないけどこの子をお風呂に入れてあげられない?」

「いいよ、ちょうどお湯があるから温め直そう。ついでだからアンタも入っていくといい。そこの兄さんはどうするね?」


「外を見てくる」

 口数少なくポールは出て行った。


 家の中は壁一面が棚で、古い本の匂いがした。他にもガラス製の変わった形の容器や、何に使うのか分からない器具が所狭しと並べられた、不思議な部屋だ。大きな葉の植物が重なり合いながら、蝋燭の炎に影が揺れる。


「そら、これをお飲み。気持ちが少し落ち着くはずさ」

 ハスキーな声でアニエスが手渡してくれたコップには、白濁した液体が入っている。

「乳酒を甘くしたものさ、毒なんかじゃないから心配いらないよ」


 心臓はずっと鎮まらないままだし、ものを口に入れたら吐いてしまいそうで怖かったが、恐る恐る一口含んでみるとわずかな酸味に甘さがほっとする味だった。

「ああ、アニエスさんのはいつもおいしい」

 ジェルメは一気飲みしたらしく、コップをもうアニエスの手に戻している。


「ブルターニュ公が腹黒いのは昔っからだけどね、それにしても子供まで巻き込みやがって」

「ええ、許せない」

 ブルターニュ公。この土地の王の名前だ。腹黒いって…?


 するとポールが玄関扉を少し開けて「来るぞ。俺は裏口に回る」とだけ告げ、また消える。

「こっち、ここから床下に隠れな」

 すぐにアニエスの案内で奥のキッチンから狭い床下に下りる。上から扉を閉められると急に息苦しい。


 真っ暗な中でマリアンヌの姿がリフレインする。アニエスさんが同じ目に遭うんじゃないか。そう思っただけでガタガタ体が震えてしまう。

「怖いよね。でもアニエスさんは強~い”魔女”だから安心して。昔、私も助けられたのよ」

 言いながらジェルメはギュッと抱きしめてくれた。オシッコで濡れて臭いのに。


 やがてドドドドドッと集団の馬の足音が止まり、鍵をかけた玄関が乱暴に叩かれる。

「俺たちゃブルターニュ公の命令で来た! 家に火を放たれたくなきゃここを開けろ!」

「うるさいねぇ、一体何の用だい?」

「とぼけんな! ここに娘が逃げ込んでるはずだ。痛い目———」


「なぁら探してみるかい? お前たちに魔女の家に立ち入る勇気があるなら、入るがいいさ」

 食い気味のド迫力ハスキーボイスとともにガチャッ! と玄関の錠前が解かれる。彼女が持つ燭台には、紫色の炎が灯っていた。


「うひっ! ひひ、火の球…」

「魔界の炎さ。目が潰れないといいねぇ。ウッヒッヒッヒッヒ」

 それを聞いた前列の三人程がわっ! と腕で顔を覆う。


 なんの負けじと後列から別の男が一歩を踏み出すが、今度はかまどから緑色の火が出ているのを認め「ヒャッ!」と悲鳴を上げた。

「あっ悪魔の篝火かがりびだ…」


「そこぉ! 気をつけな。お前の横にあるの、悪魔の手首だよ。たまに動いて首を絞めるからねぇ」

「ヒイッ⁉」

 全身がビクッと蒼白になった男の横、棚に置いてある枯れ枝のような、しかし四股のそれはひん曲がった指と尖った爪にも見える。


「ブッ、ブルターニュ公に逆らって無事で済むと思うのか⁉ おおお大人しく娘を引き渡せ! この魔女めが!」

「好きに探すがいいさ。命が惜しくないならねぇ。ちょうど目玉が不足してるんだよ」

 ニタアと笑い舌なめずりするアニエス。


「この家にはたくさんの毒があるからねぇ。間違って触れちまって指がもげても、目が見えなくなっても知らないよ~ッヒャッヒャッヒャハア!」

「おっ、おのれ異端めぇ!」

「悪魔と交わった汚らわしい女!」


「そうさ! ここは魔女の家だよ。なのになぜブルターニュ公が手を出せないか知ってるかい? アタシの薬で命を救われたからさ」

 得体の知れない力に権力まで振りかざされては、傭兵どもは動けない。


「さぁて、どうしてくれようね。お前、いい顔してるねぇ、その顔を溶かして目玉をほじくり出してやろう。そっちは筋肉自慢かい。全身の骨から剝ぎ取ろうかね。さぞいい音がするだろうよ」


 そして緑の炎の中から、カンカンに熱せられた石を炭挟みで取り出す。

「さあ、最初に呪われたいのは誰ぁれかな?」

 魔女の口が横に伸び、石が放り投げられた。


「うひいいいいいいっ!」

「あああああっ! 熱っちいいいぃぃぃ! 焼ける! 溶けるうううぅぅ!」

「ちくしょう! 覚えてろおおおぉぉ~」


「フンッ、腰抜けどもが」

 アニエスがしっかり鍵をかけると、裏口からポールが入ってくる。

「奴らは離れていった。ひとまずは大丈夫だろう」


 床が開けらるまで、ジェルメはマリーをずっと抱きしめていてくれた。だから途中から震えが止まったし、人の体温がこんなにも温かくて安心するものなのだと初めて知った。


「さっすがアニエスさん。カッコ良かった!」

「ヒヨった奴らだったねぇ。今お風呂にしようね」

 緑色から普通の色に戻っている竈から取り出した石をフライパンに乗せ、受け取ったポールが運んでいく。


 不思議そうに見つめているマリーに、アニエスがニカっと微笑んだ。

「驚いたかい? 燃えている火に銅を混ぜると緑色になるんだよ。呪いみたいに見えるけど、アタシの起こす現象にはみんな理由がある。もっとも、この世には理由のつけようがない事もたくさん起こるけどねぇッシッシシシシッ!」

 魔女がきれいな歯を見せる。


「じゃあお風呂借りるね。一緒に入りましょうマリー」

「え」

 返事をする前に浴室に拉致され、スパスパッとジェルメは脱いだ。

「あぁ~! ちょうどいい温度よ。マリーも早くいらっしゃい」


 少しだけ迷ったが、尿でべたべたする足が気持ち悪くて裸になった。樽を半分にしたような浴槽の底には熱された石が入っていて、その上に板を乗せて浸かる。

 石鹸を泡立てて足を洗い流すと、ジェルメが「髪を流してあげる」と手で湯をすくい、頭にかけてくれた。


 温かい湯が上から頭皮を伝い流れ落ちる感覚が心地良く、湯の中で膝を抱えてじっとしていると、目の前のジェルメの白い胸には大きな矢傷の痕があった。見てはいけないような気がして下を向く。


 女性なのに戦ってきた人なんだろうか。修道院で救出してくれた時も平然として、むしろ優しい顔をしていたっけ。アニエスさんも自分の命すら危ない状況を何も言わずに引き受けていた。


 怯えて歪んだマリアンヌの顔を思い出して、また歯が鳴りそうになる。ああなるのは自分のはずだった。ジェルメやアニエスだって、串刺しにされてもおかしくない状況だった。

 なのに一体どうして———


「どうして見ず知らずの他人のためにそこまでできるの?」

 か細い声でマリーが言うと、ジェルメは胸の傷痕にそっと触れた。


「一人ではくじけても、他の誰かのためになら頑張れる。ジルは、あなたのお父さまはそういう人だった」

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