第一章 ブルターニュ

第1話 無情、それが中世フランス

 食堂からは焼いた肉の濃い匂いと、旅人たちの話し声が石造りの壁を通して伝わってくる。女子修道院では普段聞かれない低音が、少女たちの胸をざわつかせる。


「ねえ見た?」

「あの奥から二番目の金髪の人でしょ?」

「そうそう、超カッコよくない?」


 給仕は老いた尼たちが行うが、その目を盗んで必要もないのにリンゴ酒を追加したり、こっそりパンを渡したり。それが少女たちの戦略だった。蠟燭ろうそくの炎が揺れるたび、少女の影がひらひらと舞うように行ったり来たりしている。


「あたしがあの人にするんだから」

「えー、ずるーい。わたしだってぇ」

 会話を背中で聞きながら、マリーには興味がなかった。さりとてバカにする気もない。


 彼女たちは食い扶持ぶちを減らすために修道院に置き去りにされたり、親が死んで帰る家がないのだ。本気で神に仕えたいわけでもなく、この牢獄で年長の尼と同じく干からびて一生を終えたくないと思えば、こうして偶然立ち寄った旅人(イケメンなら文句なし)に連れ出してもらうか、月一回の外出で運命の出会いを見つけるしかない。


 しかしこの修道院で一人、マリーだけが違っていた。


「なによその目、またあたしたちのことバカにしてるんでしょ。マリーはいいよね、どうせあと少ししたら御曹司の婚約者が迎えに来てくれるんだもんね」

 奥から二番目の金髪イケメン狙いの少女は、マリアンヌという名だ。ちょっとぽっちゃりで、十二歳のマリーよりも二つ年長だった。


 バカにしてないし。婚約者なんてまだいないし。けどああ言えばこう言うマリアンヌには「別に」とだけ返すのが一番。言いつけられた調理場の掃除を早く終えようと一心に手を動かす。

「はい腰掛け金持ちの上から目線。感じ悪ーっ」というマリアンヌを聞こえないふりして、宿坊へ戻った。


 部屋には小さくて硬いベッドと、下着を入れる共用の戸棚に、わずかな私物を入れるナイトテーブル。古くて引き出しが引っかかるが、中には押し花やレースの切れ端が入っている。これがマリーの安らぎなのだ。


「マリアンヌみたいに口達者な嫁をつかまされたら毎日大変だろうな」

 どこかの農家の嫁にでもなり、畑でワーキャー騒いでる姿を想像して一人笑いがこぼれる。


 ここは四人部屋だが、マリアンヌとあと二人も今夜は遅くなるだろう。一人きりで蝋燭を使うのは贅沢だが、構わずマリーは火をつけて、尼服の下にこっそり隠して持ち出してきたスープの椀にさじをつけた。


「おいしいっ」

 男性客が訪れると、女子だけでは普段できない大型家畜を解体できるから、今日のスープには肉の脂身がマシマシなのだ。作っている最中からぐうぐうお腹が鳴って、与えられた分だけでは到底足りなかった。冷めて表面で脂が固まっているが、あっという間に食べ終わってしまう。もっとずっと食べていたかった。


「…顔も見たことない相手にいずれ嫁がされるくらいなら、ここにいた方がマシだよ」

 貴族の家に産まれたが、マリーは家族と暮らしたことがなかった。その点では他の少女らと何ら変わらないか、それ以下かもしれない。


 母親はマリーを生んでからすぐ別居状態でほとんど会ったことはなく、別の男性と暮らしているという。そして家の財産を使い込んだ父親が育児などするはずもなく、こうして人生のほとんどを修道院で過ごしている。


 結婚が幸せなものだとは到底思えない。あたしなんか産まれない方が、親にとっては良かったんじゃないの。


 灰色の修道院で灰色の尼服に身を包み、毎日決められた通りに過ごしている。フランス北西部、ブルターニュ地方の片田舎で送る人生なんて所詮そんなもの。

 けれど女が、娘が一人で生きていけるほど、優しい世の中じゃない。それが現実なのだ。


 その時、いくつもの少女の悲鳴が静けさを引き裂く。

 全身がビクッとなり、思わず椀を落とすところだった。重厚な石壁をも震わせる声は一度ではない。


「どうしたの…⁉︎」

 只事ではない。本能的にマリーは立ち上がり、蝋燭を吹き消して逃げる場所を探していた。

 戸棚の中? ううんベッドの下? どうしよう、どうしよう!


 すると「離してよ!」と抵抗する少女の声と、低くて恐ろしい声と足音が近づいてくる。


「あたしじゃないわよ! あたしはマリーって呼ばれてるけどマリアンヌで、ほんとのマリーは別にいるって言ってるじゃない!」

「うっせぇよブサイクが。だったら証拠を見せてみな」

「見せるわよ! そこの部屋にいるはずだわ!」


 ここに来る…! 恐怖と焦りでキーンという耳鳴りと共に頭がズキズキし、動かす体は自分のものでは無いような気がした。暗闇でも浮かび上がる、壁に掲げられた白い十字架だけが視界に残る。

 扉が蹴り開けられ、マリーは身を固くした。


「…いねぇじゃねえか」

「ほ、他の部屋に逃げたのかも!」

「んじゃ、やっぱお前がマリーお嬢様ってことでいいよな。へへ、存外育ってんじゃん」


 そう言ってマリアンヌを物のように寝台に投げつけるのは、食堂で奥から二番目に座っていた金髪の男だ。

「自分から男を寝室に招き込んでなぁ、欲しくてたまんねぇんだろ?」


 抵抗を押さえつけて尼服を切り裂き、男はのしかかった。恐怖に引きつったマリアンヌの顔が、戸棚扉の隙間越しに目に入る。いつもこっそり肌や髪の手入れをしてツヤツヤなのが自慢だったのに、見る影もない。これがあのマリアンヌなの?

 けれど全身から発された悲鳴は耳を塞いでも聞こえた。


 金髪とスキンヘッドの二人は武器を持っている。助けたくてもマリーが敵うはずもない。マリアンヌはあんなに髪を振り乱し抵抗して、泣き叫んで助けを求めてるのに…!


「あーうっせえな」

 行為にふけりながら男が無機質に剣でマリアンヌの胸を刺し貫くと、悲鳴は聞こえなくなった。


 一定のリズムで寝台がきしむ音だけがして、逆に恐ろしくて恐ろしくて叫びそうになり、下を向いて両手で口元を覆う。全身が震えて歯がガチガチ鳴るのが漏れ聞こえてしまうのではないかと、全力で口を押えることしかできなかった。


 どうして…⁉ どうしてこんなことに⁉

 旅人を装った盗賊だったのか。いや、男は確かに言ったではないか。


『マリーお嬢様ってことでいいよな』


 あたしのことだ…!

 じゃあ、マリアンヌはあたしの代わりに? なんで、なんで?


 ギシギシ寝台がきしむ音がだんだん速くなり、やがて男が呻く。

「たまには処女ってのも悪くねぇな。あんたもどうだ?」


 汚らしい下半身をマリアンヌの体から離すと、足元の股引を引き上げながら、スキンヘッドに向かって罪の意識のない声をかける。あんなおぞましいことをしておいて、本当に人間なのだろうか。


「いや、俺はいい」

「ならとっととずらかろうぜ、ババアばっかりでこんな辛気臭ぇとこ」

「待て。居る」

 四つある寝台の下を一つ一つ確かめていたスキンヘッドが手にしているのは、まだ脂が乾いていない木の椀と、ほのかに熱が残る蝋燭だった。


「…へぇ、かくれんぼねぇ。どーこかなぁ?」

 ゆらりとした足取りで戸棚に近づく。


「ジャーン! 見ーつけ。…外れか」

 男がもう一つの戸棚を振り返る。まっすぐに目が合った気がして、マリーはギュッと目をつぶった。


「マリーお嬢さまぁぁぁ? いたらお返事してくださーい」

 男がすぐそこにいるのを感じる。もうダメだ…!


 だが戸棚の扉は開かなかった。

 代わりにすぐそこで「ウッ!」「ギャアアアアッ!」と男の悲鳴が二つして、ドン! と戸棚が揺れる。


「キャアアッ!」

 あわてて口を押えたが遅かった。思わぬ衝撃に声が出てしまう。


「誰かそこにいるのね?」

 小さな足音と共に扉がそっと開けられる。そこに居たのは恐ろしい男ではなく、小麦畑のようなサラサラの長い髪の女性だ。


「怖かったわね。もう大丈夫よ」

 女性の手がマリーの黒髪をそっと撫でる。

「マリー・ドゥ・レね? お父さまによく似てる。あなたを助けに来たわ。今は詳しく話している時間は無いけど、私を信じてついて来てほしいの」


 女性の声は、なぜだか胸にすっと沁みるようでマリーは疑うことなく頷き、女性が差し出した腕につかまる。足元には動かなくなった男たちが転がっていて、女性の右手には剣が握られている。


「ダメ…足に力が」

 足が立たなくて戸棚から転げ落ちそうになるのを抱きとめてくれる。その胸は硬い鎧に覆われている。


「お願いよ」

 背後に立つ味方らしき男性に身を預けられて、マリーは顔をうずめた。寝台に縫い止められたマリアンヌを目の前にしたからだ。


 女性が真っ赤に染まった胸から剣を引き抜き、無惨に押し広げられた膝と瞼を閉じて、上から布団を掛けた。

「かわいそうだけど、今は逃げましょう」

 十字を切り、祈りを捧げる。


 こうしてマリーの灰色の日常は、突然終わったのだった。

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