暁の約束

乃木ちひろ

プロローグ

オルレアンの乙女

 新しく石畳を敷いた横丁通りには居酒屋が並んでいて、どこの店からも賑やかな灯りと笑い声が宵の街に流れている。


「まぁたそんなホラ吹きやがって! よっくも毎晩毎晩飽きもせずピーチクパーチクその口が動くもんだよ!」

「年増の欲求不満にぁ、敵わねぇわな。毎晩毎晩でっけえケツ振りやがってよ。なぁオヤジ?」

「いやぁ、まぁ、自慢じゃありませんがうちの嫁、いい尻してるでしょう? もう毎晩良くって」


「ギャッハッハッハッハッ! 毎晩ヤってんのかよ!」

 カウンターの中で店主がちょっと顔を赤らめている。禿げ散らかした小男のくせに、案外見かけによらねえもんだな。


「ちょっとお前さんよ! 余計なこと言うんじゃないよ! この男に言ったら明日には市内全部に広まっちまうだろ」

 赤面した女将のマーサが、巨大な尻をぶりぶりしながら夫へ詰め寄る。でっぷりした腰とともに仁王立ちされて、小オヤジはますます小さくなった。


「まったくどいつもこいつも口ばっか達者でさぁ! イイ男は黙って背中で飲むもんさ」

「ギャーッハッハッハッ! こいつぁ傑作だ! んなカッコツケ野郎が一体どこにいる? なぁ?」

 これには店中の男がうんうん頷く。


「いるさ! ラ・イール様がそうだった。あたしゃあの背中に惚れたのさ」

「ヒひィー! 年増ババアに惚れられても、寒気がするだけだぜ」

「黙りな! ラ・イール様と一緒に戦ったとかホラ吹くくらいなら、アンタもちっとはあの方を見習ったらどうだい?」


「あー、まぁ居たなそんな奴が」

 赤毛に赤マントの傭兵ラ・イール。大男の豪快な見た目に反して、そういや熊のような背中を丸くしてちびちび酒を飲んでいた。


 念のため断っておくと死んでいない。フランス北部、ノルマンディ方面の総指揮官としてイングランドとの長きにわたる戦いに赴いている。同じド田舎ガスコーニュ地方の出身で、傭兵上がりの身としてこれ以上ない出世を遂げた同志だ。


「ていうかラ・イールが忘れられねぇなら、なんっでこの傭兵ザントライユ様を誰も覚えてねんだよ? オレだってあん時活躍したんだぜ?」

 すると今度は店中が半笑いになる。


「おいおい、一体いつまで”オルレアンの英雄”にあやかってんだよ? もう十年以上も昔のことだぜ」

「そうそう、イングランドの捕虜になった話とかリアルだったけどよ」

「その風体で英雄ラ・イールの一味だって言われてもなぁ」


 彼らの視線を集めるザントライユといえば、小汚いツギハギだらけのボロ服。伸びたいように好きに伸びた髭と髪。鎧もなければ剣も無い。もちろん金も女も無い。確かにこりゃ浮浪者だ。事実、ホームレスで居候中。


「へえへえへえっと、人を見かけで決めやがってよ。オレだって死んだ気で戦ったのになぁ」

 今はそれだけ平和ということだ。


 フランスとイングランド。


 切っても切れぬ因縁の両者は、実に百年近く戦を繰り広げてきたが、ついにフランスの勝利という結末が見えてきたのだ。戦場となっているのはラ・イールがいる北方のノルマンディのみで、それも駆逐しつつある。ここオルレアン市があるフランス中部では戦の気配はすっかり薄れて、おかげで毎日酔いどれていられるわけだ。


 即位するなり侵攻してきたイングランド王ヘンリー5世により、破竹の勢いでフランス北部を席巻され、パリまで占拠された。あわやというところでヘンリーが急逝し、ここから挽回のチャンスと思いきや、後を継いでイングランド軍総帥となったのが弟のジョン・オブ・ランカスター。こいつがまたとんでもない男だった。


 政治と戦のどちらにも長けた傑物は、兄王以上にフランスでの版図を広げ、虫の息のフランスの喉元に突きつけてきた刃がオルレアン市の包囲だ。オルレアンを取られればもう、全土征服されるのは間違いない。一巻の終わりだった。


「そこへ援軍を率いてラ・イール様が現れたわけだよ。赤マントがカッコよくて、あん時のお姿は一生忘れらんないねぇ」

「マーサもこんなに肥えちゃいなかったな」

 ケッケッケと笑いながら巨大な尻を揉むと、盆で髭面を殴られる。


「いい加減におしよ! あの方はバタール総督様と同じくオルレアンの英雄さ。イングランドの蛮族どもからアタシたちを守ってくだすったんだ。それに比べてアンタときたら…! 一体いつになったらツケを払うんだい⁉」


「体で払えったってマーサみてぇな油断体形の年増相手は無理だぜ? おっぱいと尻の破壊力に、やっぱ腰がこうキューっとくびれてなきゃ…」

 言い終わる前に再び盆が飛んでくる。しかも今度は角で、一回二回三回どころじゃない。追いかけ回されるザントライユに店の中の温度は一気に上がり、口笛と爆笑が道へと漏れ出す。


 ———オルレアンの英雄は、ラ・イールじゃねぇ。


 一般市民から見ればそうだろう。命を張ってイングランドと戦ったのはラ・イール(と自分)たち傭兵だ。

 だが、本当の英雄は違う。自分もラ・イールも彼女の声に導かれただけだ。


 それは戦った者だけが知る真実。救世主と呼ばれ、最期は魔女として処刑された数奇な少女こそが真にオルレアンを救った英雄なのだ。火あぶりとなり、その灰はセーヌ川に撒かれた。

 今や川の流れだけが覚えているその名。


「オルレアンの乙女ラ・ピュセル、または救世主ジャンヌ・ダルクってな」

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