47
親父の部屋は俺が住んでいる寮の部屋とよく似ていた。ソファを置ける分俺の部屋の方が少しだけ広いかもしれない。整理整頓が行き届いており、親父の几帳面な性格がよく表れているなと思った。
親父はジャケットやネクタイを脱ぐと、卓袱台の傍にある座椅子を指差し、
「そこに座っていろ。コーヒーでいいな」
「あ、まあ、お構いなくというか」
「ならば構わん」
親父は卓袱台を挟んで向かい側に腰を下ろした。コーヒーはいらないと思われたらしい。実際のところあってもなくてもよかったが。
「悪い、親父……急に押しかけるようなことして。仕事も休ませたみたいで」
ひとまず頭を下げると、親父は「問題ない」と低い声で答え、
「最近では有給を消化することも業務の一環になりつつある。こういうイレギュラーな事態でもなければまともに取得することもない」
「そうなのか……そう言ってくれるならありがたいけど」
「で、用件はなんだ」
前置きを嫌うように、本題に踏み込まれる。
この淡泊さが親父らしく、低い声も相まって実に取っつきにくい。一緒に暮らしていた時の印象そのままの親父だった。
「俺……今住んでる学校の寮を出て、前の家に戻りたいんだ。親父と小学生の頃まで住んでた、あの家に」
「……そうか」
思い切って打ち明けた俺とは対照的に、親父の声は代わり映えがなかった。
しかしわずかに、目尻に力が入ったようにも見えた。
「唐突な申し出だな。わけを聞こう」
「ああ、実は――」
理由について、俺は詳らかに話した。
幼馴染の姉妹が諸々の事情で家出をしていること。このままなにもしなければ離ればなれになってしまうこと。
そして、その姉妹が俺にとってどれだけ大切な恩人であるのかを――。
「……つまりお前は、その家出してきた姉妹の居場所を作るために、前の家に戻りたいわけか」
一通り俺の話を聞いてくれた親父だったが、その顔は当然の如く渋いものだった。
「いくら恩人で助けてやりたい相手とは言え、年頃の異性二人と一緒に暮らすことを私が容認すると思ってここへ来たのか?」
「……無茶苦茶なことを言ってるのは覚悟の上だ。でも俺には、もうこうする以外になかったというか……」
「確かに無茶苦茶だな。そもそも、いくらその姉妹に事情があるとは言え、お前がそこまでしてやる必要があるのか。甚だ疑問だ」
手厳しい反応だった。なけなしの勇気がごりごりと削られていく。
もしも電話でこんな反応だったら、簡単に引き下がっていたかもしれない。
だけど、今は。
「――疑問かもしれない。無茶苦茶かもしれない。それでも俺は、なんとかしたいと思ってる。二人のことを」
やっとの思いで、親父の目の前まで来たのだから。
おめおめと帰るわけには、いかない。
「俺はもう、後悔したくないんだ。自分のせいで、大切な人たちが離ればなれになるのは、見たくないんだ」
「後悔だと?」
「ああ。だって、母さんは、俺のせいで……俺がなにも言えなかったせいで、あんなことに……」
「……なぜ今、あいつの話になるんだ」
親父の声が、いっそう低いものとなる。
俺は喉の奥をぎゅっとさせながら、それでもなんとか声を振り絞る。
「母さんが事故に遭う少し前……言われたんだ、母さんから」
――『もし、私がこの家からいなくなる日が来たら、優真はお母さんについてきてくれる?』
「あの時、俺はなにも言えなかった。どっちかを選ぶこと、答えを出すことができなかった。どっちを選んだって、離ればなれになることには変わりないと思ったから……俺の本心は、母さんが家からいなくなってほしくなかった。離ればなれになんて、なってほしくなかったんだ」
そう伝えるべきだった。答えるべきだった。
それが俺の、嘘偽りのない本音だったのだから。
けれど俺は、与えられた選択ばかりで頭がいっぱいになって、自分の本心に気づけなかった。伝えることができなかった。
離ればなれになりたくない――ただ、そう言えばよかったんだ。
「それが俺の後悔なんだ。もう二度と、なにもしないまま諦めるのだけは、嫌だったんだ。だから今日、俺はここに来た」
座椅子をどかし、その場でもう一度頭を下げる。土下座のような体勢になっていた。
「家賃や生活費のことなら、俺もバイトとかして少しは払えるようにする。それに今も、寮の手伝いとかしてもらった金をずっと貯めてるし、それも少しは足しになると思うんだ……今の寮費と変わらないくらいには、親父に迷惑をかけないくらいには、なんとか頑張るから――頼む、親父。この通りだ」
はっきりとした沈黙が室内を覆った。
長い時間が流れたが、俺はずっと頭を下げたまま返答を待っていた。
「……お前の気持ちとやらは、よく分かった。どれだけその姉妹のことを大切だと考えているのかもな」
ようやく返ってきた声に顔を上げる。
親父の表情は未だ険しいものだが、先ほどまでより微かに、物憂げな色が混じっているようにも見えた。
「だがお前は重大な思い違いをしている。あいつが亡くなったのは、断じてお前のせいなどではない。不幸な事故によるものだ。お前が自分の気持ちを伝えていたからと言って、事故が起きなかったという保証はない」
「それは、分かってるけど」
「今回の件もそうだろう。お前が私に自分の気持ちを伝えに来るのは自由だが、それで私が承諾するとは限らんし、承諾する理由もない。私には関係のない話だ。違うか?」
「それは……」
俺は懸命に、親父を説得するだけの言葉を探した。
しかしなにを言っても、現実的な弊害ばかりが頭に浮かんだ。
それらは二人との約束を叶えたいという熱意だけでは、どうにもできないほど大きなものに思えてならなかった。
今のままでは親父も、きっと了承してはくれない。
どうすればいいのか、俺は必死に考え続けた。
「……親父にだって、関係はある」
そうして自然と口から零れたのは、俺自身も予期していない言葉だった。
「親父だって、ちゃんと家があった方が、帰ってきやすいだろ? もう、何年もこっちに帰ってきてないんだから……」
自分でも信じられなかった。こんなことを口走るなんて。
親父が帰ってきたとしても、また昔のように息苦しい生活になるだけだ。帰ってきてほしいなんて思ったことは一度もない。つまりは口実に過ぎないものだった。
「……帰ってきやすい、か。それは本音ではなさそうだな」
やはりと言うべきか、当然のように看破される。
それでも俺には、この悪あがきを貫くほかなかった。
「いや、本音じゃないってことは、なくてだな……」
「誤魔化す必要はない。私のようなろくでもない父親が帰ってきてほしいなんて、思われるはずがないからな。口実だということは想像がつく」
「それは、その……すいません」
「謝るな。何年もほったらかしにしていたんだ。慕われる方が不自然だろう」
「……意外だな。親父が、そんな自虐めいたこと言うなんて」
「自虐ではなく、事実だからな」
親父の顔と声は至って無愛想なままだった。
「一つだけ訊くが、お前は以前の家に戻り、その姉妹を匿うことができれば、離ればなれにならずに済むという確証があるのか?」
「え……?」
「人と人は、いずれ別れていくものだ。いつまでも一緒にいられるものではない。たとえ今、お前が繋ぎ止めることができたとしても……ただの先延ばし、大切な者をより深く悲しませるだけのひと時を育むことになる。それが分かっていて、お前は自分自身の願いのままに突き進むのか?」
鋭い眼差しに、俺はわずかに瞳を揺らした。
それでもなんとか、目を逸らすことだけはしなかった。
――確証なんて、あるわけがない。
ただ俺は、今の俺にできることを……かつて交わし損ねた約束を、果たしたいだけだ。
もう二度と、後悔しないために。
「突き進むのは、俺自身のためだけじゃない。母さんが亡くなって塞ぎ込んでいた俺を、救ってくれた二人のためでもある――だからこそ、俺の願いは変わらない」
輪郭をはっきりさせた声で答え、俺は再び頭を下げた。
親父はなにも言わず、部屋の中にまた重たい静けさが広がった。体が芯から熱くなって、頭の中が白くなっていくような感覚に襲われる。少しでも気を抜けば気絶してしまいそうなほどの張り詰めた空気だった。
――それから、どれだけの時間が経ったのかは分からない。
「好きにしろ」
低い声で形作られた五文字がやけにクリアに聞こえ、弾かれたように顔を上げる。
「親父、今なんて……」
「好きにしろと言ったんだ。皆まで言う必要はないだろう」
「本当に、いいのか?」
「いいわけがないだろう。だがここで無理に反対したところで、お前は私の言ったことの意味を理解しない。ならば思うようにやらせ、気づかせるしかないと思っただけだ」
親父の言葉はどこまでも手厳しいものだった。
それでも、俺の中にはなんとも言えない達成感が生まれていた。
「心配は無用だよ。俺は絶対、親父が言うようなことにはならない。あの二人を――恩人を悲しませるような真似は、絶対にしない」
「……ならば、いいのだがな」
最後まで、親父が笑うことはなかった。
だけどほんの少しだけ、嬉しく感じている自分がいた。腹を割って、とまではいかずとも、こうして親父と話すことができて。親父を前にして、自分の本音を正直に伝えることができて。
少しだけ、前に進めた気がしていた――。
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