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『ねえ、ユウ』

 受話口から聞こえる藍香さんの声。微かに祈るような気配があった。

『あたしは、約束通り、ユウの――』

 はっきりと耳朶を打っていたはずの声が遮られる。

 ハッと顔を上げると、公園のすぐ傍を走る線路の上を快速電車が通過しているさなかだった。


 ――『ユウ君は、私の――』


 劈くような轟音が一気に駆け抜けたのち、覚えのある静けさが蘇る。二人ぼっちだった公園の中、再び独りきりになってしまった過去を思い出す。

 ――忘れてしまったわけじゃない。思い出せないでいたわけじゃない。

 思い違いだったんだ……あの時俺は、舞佳と約束できていなかった。彼女の願いのすべてを聞くことができなかった。電車が通り過ぎる音のせいで肝心な部分を聞き逃してしまっていた――それが記憶にこびりついていたノイズの正体。


 ――『嫌だよ。私だけ、離れちゃうなんて……だから……』


 約束して、と舞佳は言った。

 対して俺は、なにも答えることができなかった。

 彼女の願い、約束の意図を聞き逃してしまっていたから。

 彼女の願いを知ることは叶わなかった。

 俺がなにも言えずに困惑していると、舞佳は涙を流しながら公園を去っていった。

 俺は呆然とするばかりで追いかけられず、結局それが幼い頃の舞佳と言葉を交わした最後の時間となった。

 俺がなにも言えなかったのは、上手く聞き取れずに戸惑っていたせいだ。

 けれどあの時の舞佳からすれば、願いを拒絶されたと思ったのかもしれない。

 あるいは、最初から無理な願いだと分かっていたから、なにも言えずにいた俺に申し訳なく思ったのか……。


 ――『ユウ、約束よ。目の前にいる誰かが頼ってきたら、ちゃんと助けてあげて。お願いを聞いてあげて』


 不意に、藍香さんと交わした約束が脳裏をよぎる。

 思えばあれは、舞佳と約束を交わすはずだった日の、ほんの数日前のことだった。


 ――『特に、あたしみたいな女の子が頼ってきたら、絶対にね』


 藍香さんは、分かっていたのではないだろうか。

 舞佳が、俺に縋ろうとすることを。

 離ればなれになりたくないと、俺に願うことを。

 だから藍香さんも、悲しそうな顔をしていた。

 俺なんかではどうにもできないことだと知っていて。

 それでも、誰かに縋りたいと思っていたから。

 藍香さん自身も、離れたくないと強く願っていたから。

 藍香さんの言う『あたしみたいな女の子』とは、ただ舞佳一人のことを差していたのだ。

 舞佳の望みが叶うことは、藍香さんの望みが叶うことと同じだったから。

 ――けれど結果的に、それが俺の中で大きな矛盾を引き起こした。

 俺は舞佳の願いを叶えられなかった。返事をすることさえできなかった。

 同時にそれは、藍香さんとの約束をも破ることになってしまう。

 だから俺は、無意識に、舞佳からの願いをなかったことにしようとした。

 それから、まるで罪滅ぼしのように、藍香さんとの約束を守り続けてきた。

 誰からの願いも、断らないようにしてきた。

 ――本当に叶えてやるべき願いを、胸の奥に押し込めたまま。

『ユウ? ねえ、聞いてるの?』

「……ああ、ちゃんと聞こえてるよ」

 俺は嘘をついた。本当は今し方藍香さんが言いかけた言葉も電車に掻き消されたのだから、ちゃんと聞こえたわけではない。

 しかし訊き返さずとも、今の俺には分かる気がした。

 藍香さんがなにを言おうとしたのか――きっとそれが、ノイズの裏側にあった舞佳の言葉そのものであり、元は俺自身の願いでもあったのだから。

「悪い、藍香さん。俺、やることができたから」

『やること?』

「ああ……いや、やり残してたことかもしれない。向き合わなきゃいけないのに、ずっと目を背けていたんだ。だから片をつけないといけない」

『それは……ユウが答えを出すのと、関係があることなの? その片がついたら、ユウは答えを出せるの?』

「分からない。けど、約束するよ。必ず答えを見つけて帰ってくる……だからもう少しだけ、待っててくれ」

 わずかな沈黙のあと、藍香さんは『分かったわ』と相槌を打った。

『待ってるから。ユウが帰ってくるのを……舞佳と一緒に』

 ――電話を切ったあと、俺はしばらくブランコの上で深くうなだれていた。

 結局、舞佳との約束を思い出すことはできない。そもそもが交わし損ねた約束であり、聞きそびれていた言葉だったのだから。思い出せないことの方が当然だったのだろう。

 だけど今の俺になら、分かる気がする。

 あの日、舞佳が約束しようとしたこと――両親が離婚し、離ればなれになると知って、願おうとしたこと。


 ――『ユウ君は、大きくなったら、私の家族・・に、なってくれる……?』


 記憶の中のノイズに、一つの言葉を当てはめる。

 それはかつて、俺がこの場所で願っていたもの。母親を亡くし、父親との溝がより深まり、心の拠り所を見失っていた俺が望んでいたもの。

 そして俺を見つけ出した藍香さんが、俺を励ますために約束してくれた言葉でもあった。


 ――『家族がいないなら、あたしが家族になってあげる』


 俺も、あの姉妹も、それぞれが両親に対する問題を抱えていた。

 だからこそ俺たちは『家族』を望み、一緒にいるようになった。舞佳は俺とのままごと遊びを好んでいた。藍香さんは家で一緒にゲームすることを好んでいた――まるで仲のいい『家族』を作るように、仲のいい夫婦や姉弟の関係を真似るように。

 けれど本物の『家族』になることはできない。それは舞佳も分かっていたはずだ。

 彼女が真に望んでいたことは、もっとシンプルなこと。

 離れたくない――離ればなれになりたくない。

 それが彼女の本心。仮面の内側に隠された素顔。

 ――このままで、いいわけがない。

 自然と、両の拳に力が入る。

 藍香さんは、舞佳が海外へ行くこと自体はどうにもならない、もう俺にどうしてほしいわけもないと言っていたが……それではダメだ。ここで諦めることは、俺自身が成長していないことになってしまう。

 三人が離ればなれになる。また、二人の悲しむ顔を見るだけになる。

 なにより俺は――同じような過ちを、過去に犯しているのだから。


 ――『もし、私がこの家からいなくなる日が来たら、優真はお母さんについてきてくれる?』


 苦渋の選択に立ち往生することしかできず、結果的になにもかもを失うきっかけになったあの時のように。

 だからこそ俺は、見つけ出さなければならない。

 舞佳が願っていたこと。藍香さんが望んでいたこと。

 それらがかつて、俺自身がこの場所で抱いていた願いと同じなのだとすれば――交わし損ねていた約束を果たすために、考え出さなければならない。

 俺はもう、幼い時の俺はとは違うのだから。

 たくさんの願いを聞いて、曲がりなりにも叶えてきたのだから。

 きっと、今度だってやってみせる。

 誰でもない、あの二人のために。

 母さんを亡くし、独りぼっちでいた俺を救ってくれた、大切な幼馴染のために。

「家族……」

 反芻するように呟き、俺は一つの可能性に思い至る。

 あまりに無謀な賭け。文字通りの困難な道のり。

 確証なんてない――それでも、試す価値はあるはずだ。

 うなだれていた顔を上げる。日が沈みかけている空には次第に宵闇の色が混じり始め、茜と紺の狭間で一番星が独り輝きを放っている。

 悠長にしている暇はない。意を決してブランコから立ち上がり、一か八かの思いで電話をかける。

「……繋がらない、か」

 正直、予想はできていたことだ。

 それでもやっぱり、胸の奥がざわつく。気持ちが折れてしまいそうになる。

 ――だけどもう、諦めないと誓ったのだから。

 通話をキャンセルし、俺はようやく独りぼっちの公園から駆け出した。


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