43
茜に薄化粧した空を見上げる。風が少し強いが冷たいと感じるほどではなかった。
「どうしろってんだよ……」
口から零れた泣き言はたちまち風に攫われたが、声に付随させていたはずの苦悩は重く取り残されたままだった。
寮をあとにした俺は、どこへ行く当てもなく鉛色の歩道を歩いていた。寮の部屋から、あるいはあの姉妹から離れられればどこでもよかったのかもしれない。
どうすればいいかなんて、本当は分かっている。
藍香さんと舞佳、どちらを俺の部屋に残し、どちらを預かってもらうか。それを決めるだけ。
なのに頭の中は、舞佳のことでいっぱいになっている。決断を下せるような状態にない。
――『私はもっと、孤独にならなければならないの』
不意に、舞佳が言っていた言葉を思い出す。
ずっと不思議だった。なぜ彼女が、あんなことを口走ったのか。
それだけじゃない。舞佳は不自然なくらい他人との接点を絶っていた。誰とも仲良くしようとせず、学校では常に一人だった。望んで孤独になろうとしていた。幼い頃の彼女を知る俺からすれば不可解な在り様だった。
けれど今なら、理解できる気がする。
――『ずっと……一緒には、いられないから……お姉ちゃん、とも、それに――……』
あの言葉が、すべてだったのだ。
ずっと一緒にはいられない――どうせ自分はいなくなる、離ればなれになるのだから。
分かってしまえばシンプルな理由だ。自分から孤独になれば、誰とも関わらないようにすれば、別れる辛さが生まれることはない……両親の離婚によって、俺や藍香さんと離ればなれになった時のような苦しみを味わうことはない。
だから高校で再会した俺とも、距離を置こうとした。『鏑谷君』と呼んできたのも、舞佳なりのリセットのつもりだったのだろう――そうすることで彼女は、氷の仮面を手に入れた。
他人との接点、関係性を代償に、幼い日の悲しみを繰り返さないようにした。
だけどそんなのもの、所詮は仮面だ。彼女の素顔ではない。
さっきだって舞佳は、泣いてしまいそうな顔をしていた。
いや、さっきだけでなく、舞佳とまた話すようになったここ数日、似たような表情を何度も目の当たりにした。
その度に俺は、かつての約束を思い出そうとしていた……幼い日の舞佳が浮かべた悲しげな顔を、無意識に重ね合わせていたんだ。
それでも、まだはっきりとは思い出せていない。
舞佳が俺になにを願ったのか。なにになってほしいと言ったのか。
「……あ」
ふと辺りを見ると、俺は見知った公園の前に立っていた。駅の西口側、徒歩でも五分とかからないくらいの場所にある三角公園――俺があの姉妹と、出会うきっかけになった場所。
姉妹の両親が離婚すること、舞佳からの約束を聞いたのもこの公園だった。砂場とブランコくらいしかない狭い公園に人影はなく、俺は吸い寄せられるように足を踏み入れていた。
「懐かしいな……いつぶりだっけか」
記憶を辿ってみたが、中学で寮に入って以降はここを訪れた記憶はない。舞佳との約束以来か、あるいはそのあと一度くらいは来ただろうか……。
俺の足は自然とブランコに向かっていた。姉妹と出会う前はここに独りでいるのが日常だった。いつの間にか隣のブランコにも藍香さんか舞佳がいるのが当たり前になって、そういう時間の方が長くなったはずなのに、まだ独りで風に揺られていた頃のことを思い出す。
俺は向かって右側のブランコに腰掛けた。独りきりだった頃のように俯いてみると、ポケットの中でスマホが振動する。藍香さんからの着信で、なんというタイミングなのかと目を疑った。
『ユウ? 今どこにいるの?』
第一声はあまり彼女らしくない、切迫した声に聞こえた。少なくとも初めてこの公園で会った時のようなフランクさは感じられない。
「悪い、心配かけたかな」
『当たり前じゃない。中々帰ってこないんだもの……舞佳も、凄く心配してる』
「そっか。そうだよな。悪い、本当に」
申し訳なさと同時に、不思議と嬉しさも込み上げていた。帰らないことを心配される、そんな当たり前のことも、この公園に独りでいると特別なことのように思えてくる。
「ちょっと、昔のことを思い出してたんだ。藍香さんたちと初めて会った時のこととか」
『初めて?』
「ああ。そこになにか、答えがあるような気がしてさ……確証があるわけじゃないけど、でも、大事なことのような気がしているんだ」
『……そう』
短い相槌が返ってくる。
いつかと、同じような声色だった。
「ありがとな、藍香さん」
『え?』
「いや、ずっと言いそびれてた気がしたから。あの時、声をかけてくれなかったら、俺はずっと独りだったかもしれない」
『……なによ、今更』
「今更でも、言わなきゃいけないと思ったんだ。あの時の藍香さんの言葉には、随分と救われたから」
『本当に?』
「こんなことで嘘なんか言えるわけないだろ」
『……あたしは、逆なんじゃないかって思ってた。あの時、ユウに声をかけたのが間違いだったんじゃないかって』
「間違い?」
『声をかけないでいれば、こんなに苦しませることもなかったんじゃないかって……ユウも、舞佳も』
あまりにも寂しい言葉だと思った。本当にあの藍香さんの口から発せられたのかと疑いたくなるほど。
「……俺は、藍香さんが声をかけてくれてよかったと思ってるよ。舞佳と引き合わせてくれたことも、友達になれたことにだって感謝してるんだ」
『だってそれは、あたしからお願いしたことでしょう? 友達になってあげてって、あたしからのお願い』
「それもそうか……今考えると、あれが最初の約束というか、藍香さんからの無茶だったのかもな」
――『家族がいないなら、あたしが家族になってあげるわ』
――『その代わり、あたしの願いも聞いてほしいの――約束できる?』
今にして思えば、あれは当時の俺が最も望んでいた言葉だったのかもしれない。
家族が離ればなれになる危機に直面し、結果的には想定外の不幸で母親を失った。父親とも見えない距離が生まれ、家族という感覚を失いかけていた時だった……だからこそ俺は、初対面にもかかわらず藍香さんの言葉を容易に受け入れたのかもしれない。たとえそれが彼女なりの冗句、落ち込んでいた俺を笑わせるための気遣いだったのだとしても。
――『ねえ、ユウ君……お願いがあるの』
覚えのある声が葉風のように流れ、咄嗟に隣のブランコに目を向けた。
誰もいないはずのブランコに小さな人影を幻視した。それは間違いなく、幼い頃の舞佳の姿だった。
そうだ……あの日、舞佳から両親の離婚を聞かされた日、約束を交わした時。
俺と舞佳はここにいた。茜に染まった公園の中で、一緒にブランコに乗っていた時だった。
舞佳は俺にお願いをしようとした。今にも泣いてしまいそうなのが分かるほど舞佳の横顔は思い詰めていた。
しかしあの時、舞佳が俺に伝えようとした願いは……。
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