42
ほどなく、真幸さんは寮生の夕食作りのために部屋を去った。普段なら俺も手伝うところだが、今日ばかりはそうもいかない。
「それで、どうするか……」
気まずい沈黙の中、やっとの思いで話を切り出してみる。
と言っても具体的にどうすればいいか分からず、相談するような言葉尻になったしまったが。
「どうにもなんないでしょう」
答えてくれたのは、やはり藍香さんだった。
「寮母さんの譲歩案に従うしかないわ。ユウがあたしと舞佳のどっちかを選ぶ。至ってシンプルな話だわ」
「それはそうだが、二人はそれでいいのか? 俺がどっちかを選んだら、選ばれなかった方は女子寮の寮母さんのところで世話になるんだぞ」
「もちろん嫌よ。知らない人の部屋なんて気を遣うし、あたしは絶対、ユウのところがいい」
まあ、ある意味想像通りの答えだった。藍香さんらしい理屈である。
問題があるとすれば――、
「なあ、舞佳」
「は、はいっ」
返事と共に、びくりと総身を震わせている。
先ほどからずっと思い詰めた顔をしていて、明らかに普段通りの舞佳ではなかった。
「舞佳は、どっちがいいんだ」
「どっちって……」
「俺か女子寮の寮母さんのところか……と言っても猶予は一週間で、それ以降どうするかは改めて考える必要があるけど」
「……っ」
押し黙り、俯いてしまう。
どうしてそんなに、苦しそうな顔をするのか――なにかまだ、俺が知らない事情を抱えているのではないか。そんな気がしてならない。
「ダメよユウ。あたしや舞佳に選択を委ねたら。これはユウが決めるべきことなんだから……それにどっちがいいかなんて、訊くまでないことでしょう? 舞佳だってここがいいに決まってるわ」
「なんでだよ。こんな男子寮の部屋でこそこそしてるより、女子寮の方がまだ気が楽なはずだろ」
「そういうことじゃないのよ、ユウ。舞佳がここにこだわるのは……いいえ、そもそもこの子がユウのところに来たのだって――」
「ね、姉さん! それ以上は……!」
逼迫した声で舞佳が遮る。
藍香さんキッと目つきを鋭くし、
「やっぱり、まだ伝えてなかったのね……なにも言わないままでいたのね、舞佳」
「っ……」
「どうしてよ? 昔は、もっと簡単に言ってたじゃないの。縋ってたじゃないの。あんな無茶な約束までしようとして、ユウに助けを求めようとしてたじゃないの。なのになんで、今はそうしようとしないわけ?」
「それは、だって……っ」
歯がゆそうに口籠る舞佳。
俺にはなにがなんだか分からなかった。
「どうしたって言うんだ藍香さん。急にそんな、責めるように言わなくたって」
「責めたくもなるわよ――だってこれが、三人で過ごせる最後の時間かもって考えたらね」
「は……?」
最後? なにを言って……。
困惑する俺を見つめ、藍香さんは長い溜め息をついた。
「……舞佳はね、もうすぐいなくなるのよ。海外転勤するお父さんに、ついていくことになったから」
「か、海外……?」
そんな話、舞佳は全然――、
声が続かず、俺はとっさに舞佳を見た。
「……っ」
目が合った瞬間、すぐに目を逸らされる。刹那、瞳に溜め込まれた涙が小さく光った気がした。
「どういうことだよ。親父さんは再婚するって話じゃなかったのか? 藍香さんと似たような問題だったんじゃないのか?」
「そうね、似たような問題、あるいは似て非なる問題……お母さんは二年も待てなくて再婚を早めることにしたけど、お父さんの方は逆なの」
「逆?」
「本当はもう、再婚しているはずだったということよ。舞佳が中学を卒業する頃にロンドン転勤になって、その時に再婚もする予定だったの……向こうにいる婚約者とね」
「中学を卒業する頃って、それじゃあ舞佳は……」
藍香さんの言う予定の通りだった場合、舞佳はこの高校に進学することはなかった。
俺と再会することも、本来はありえなかった――当然、クラスメイトになることだって。
しかし現実的には、舞佳はまだ日本にいる。赤見ヶ峰第一高校に進学している。恐らく親父さんの海外転勤が延期にでもなったのだろう。
だから進学する以外になかった。近いうちにいなくなると分かっていても、高校に通わないわけにはいかないから。
そして今頃になって、正式に海外へ行くことが決まった。
親父さんの再婚も――舞佳が日本を離れることも、確定的になった。
「でも、だからって、いきなり海外なんて。学校とかどうすんだよ? 言葉だって……」
口をついて出てくるのは、そんな些末な心配ばかりだった。
違う。こんなことを言いたいわけじゃない、問い詰めたいわけじゃないのに。もどしかしい思いが募っていく。
「学校のことは、ユウが心配するほどでもないわ。ロンドンには日本の海外分校がいくつかあるからさほど不自由しないし、日本の高校卒業資格も取れる。言葉だって、舞佳くらい学業優秀ならすぐになんとかなるでしょう。少し頑張ればブランクなく向こうの大学にも進学できるレベルだと思うわ」
確かに、舞佳は学校でも随一の優等生で、試験ではいつも成績上位だ。英語の成績もかなり上の方だったし、その気になれば英会話だって問題なくこなせるだけの素養はある。
「もちろん舞佳は日本を離れたくなくて、お父さんに何度も言ったみたいよ。お父さんも申し訳なく思っているみたいだったけど……一人だけアパートに住むわけにもいかないし、あたしのところも今となっては無理になった。どうしてもお父さんについていくしかなくなったのよ」
どこかの家に住み込めれば、ついていく必要はなくなる。
それが親戚や、信用できるような友人の家ならばよかったのだろうが、舞佳にはどちらもなかった。女子寮も満員で入れなかったのだろう。頼みの綱とも言える藍香さんのところも、藍子さんの再婚によって不可能となった。
だからと言って俺の部屋に家出してきたところで、解決できるような問題ではない。
男子寮暮らしである俺の部屋に、ずっと住み込めるはずもないのだから。
「舞佳は、なんで黙ってたんだ? 親父さんのこと……」
自然と、そんな問いかけが口から零れた。
舞佳はハッと顔を上げたが、またすぐにバツが悪そうに俯いて、
「……同じだと、思ったから」
「同じ?」
「昔、お父さんとお母さんが離婚するって言った時と……あの時みたいに、ただ、あなたを困らせるだけになるって……」
沈痛な声だった。目を逸らしたいほど、後ろめたい気分になった。
しかし同時に、目を離せなくもなっていた。
今の舞佳と昔の舞佳が、俺の中でぴたりと重なるような、そんな感覚があったから。
――『ユウ君は、大きくなったら、私の――に、なってくれる……?』
……そうだ。そうだった。
舞佳と、大切な約束を交わした時。
それはまさしく、舞佳から両親の離婚話を聞かされた時だった。
あの時の彼女も、今と同じような目をしていた。悲痛な面持ちをしていた。
けれど……やはり思い出せない。
俺はあの時、舞佳とどんな約束を交わしたのか。そもそもそれは約束だったのか。俺は彼女に、どんな言葉を返したのか――。
舞佳は、また俺を困らせるだけになると言っている。
つまり俺は、その約束を叶えてやることができなかった……?
「――それで、ユウはどうするの」
鋭い声にハッとさせられる。
凛とした眼差しの藍香さんが俺を見つめていた。
「あたしと舞佳、どっちを選ぶのか。元はそういう話だったわよね」
「いや、もうそれどころの話じゃ……」
「いいえユウ、それどころの話でいいのよ。舞佳はもう、あたしたちの前からいなくなってしまうこと、それ自体をどうかしてほしいなんてお願いしていない。最初から、どうすることもできないことなんだから」
彼女の言う通りだ。
こんな問題、俺一人で解決できるようなことじゃない。抱え切れることじゃない。
どうにかしてほしいなんて言われても、どうすることもできない。
「だからね、ユウ。舞佳はあと一週間だけだとしても、この部屋にいたいって言ってるの。そしてあたしも、できることならユウの部屋がいい」
穏やかな声で、藍香さんは言った。
その願いは、まさしく選択だった。
どちらかを選べば、どちらかを捨てることになる。
今度ばかりはじゃんけんとはいかない。俺自身が決めなくてはならない。
けれど舞佳がいなくなるという話に気を取られ、すぐに決断することはできなかった。
いや、簡単に決断してはいけないことだと思ったのかもしれない。
「悪い……少し、考えさせてくれ」
それだけ答えて、俺は一度、部屋から出ることにした。
「ユウ君……」
玄関を出る間際、俺を呼ぶ弱々しい声が、微かに聞こえた気がした。
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