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「本当は今だって、喧嘩はしちゃったけど、お母さんのことは理解しているつもりなの」

「藍子さんの、こと?」

「お母さんが、付き合ってる人との再婚を早めようとしたこと。早く一緒に暮らそうとしたことをよ」

「理解してるんなら、なんで家出なんて」

「理解してからこそ、そうした方がいいと思ったの。みなまで言わなくても分かるでしょ」

 俺は押し黙った。

 家を出ることが彼女なりの、母親に対する気遣い。

 だから戻ろうとしなかった。母親を説得しようともせず、頑なに俺の部屋に居座ろうとした。

 ……不器用な人だ。普段は割となんでも器用にこなす人なのに。藍子さんとのことになると、途端に人が変わる。

 けれど、それもまた、藍香さんらしいとも思ってしまった。彼女らしい気遣い方のようにも感じられた。自分に素直なようで素直ではない……いつも本心は明かさず、本当のことは言わず、とぼけたような言動で取り繕っている。まるでそれが、すべてを丸く収めると信じているかのように。

「……そんな回りくどいやり方じゃなくたって、素直に祝福してやればよかったじゃないか。藍子さんの再婚に、賛成しているんだったら」

「長いこと一緒にいると、まっすぐに伝えられないこともあるのよ。それに、心の底から賛成しているわけでもないし。あたしは今でも、お父さんと離婚しちゃったこと、許せていないから」

 だけどね、と藍香さんは続け、

「好きな人とできるだけ早く、長く一緒にいたいって気持ちは分かるから。共感できちゃうから……そうすることで間違いを犯したり、ほかの誰かを傷つけたりするかもって分かってても。仕方がないのよ、こればっかりは。特に親子なら、余計に考え方も似ちゃうだろうし」

「別に、藍香さんはなにも間違ってなんかないじゃないか。藍子さんに対する気遣いだって、不器用だとは思うけど、俺は間違っているとは思わない。それに、誰かを傷つけることだって……藍香さんは、絶対にしない」

「……優しいのね、ユウは。でも、本当にそうかしら。あたしはなにも間違ってない、傷つけることもない……本当にそう思う?」

 彼女は微笑んだまま俯いていた。

 どこに視線を向けているのか分からない、彼女らしくない低い声も、俺ではないどこか――あるいは自分自身に言い聞かせているような、そんな気配があった。

「なにもかもあの子のためだって思っていたのに、あたしが繋ぎ止めてあげないとって思っていたのに……それなのに、居心地がよくなって、甘えて、楽しくなって、嬉しくなって。それでも、あたしはなにも間違っていないのかな」

「藍香さん、なにを……」

「あの子の気持ちも全部知っていて、あの子がこれからどうなってしまうのかも知っているのに……もう繋ぎ止めておく必要だって、あるかどうか分からなかったのに。せめてあの子が、もっと早く素直になっていればよかったのに。手は尽くしたつもりだったんだけど……やっぱり、無意味だったのかも。それとも、ユウの部屋に転がり込んだことが、そもそもの間違いだったのかな。どうすればよかったんだろ、あたし……」

 呟くような声を最後に、藍香さんは黙り込んだ。

 彼女から滔々と流れ出た思いの丈はあまりに不鮮明で、俺には分からないことだらけだった。ただ恐らく、『あの子』とは舞佳のことだろう。それだけは間違いないと思う。藍香さんはいつだって、舞佳のことを気にかけている良き姉だったから。

 けれど繋ぎ止めるとか、舞佳の気持ちとか、素直になっていればとか……その辺りのことが上手く繋がらない。どんな意図があって藍香さんはそんなことを言ったのか。

 それに、もう一つ……、

「これからどうなってしまうのかって、どういう意味なんだ? 舞佳だって藍香さんのように、気遣いのつもりで家出してきたんじゃないのか?」

「……さあ、どうかしらね。あの子はああ見えて、意外と子供のままだから。ユウのところへ来た理由は、もっと単純なんじゃないかしら」

「単純?」

「そう。約束を破ってでも早く再婚しようとしているお父さんを見て、思うところがあったのかも。それでユウのところへ来たとか」

「だから、その思うところってのが……」

「――やっぱり、あの子はまだ、なにも言っていないのね。まだなにも、ユウに伝えていないのね」

 遮るように言うと、藍香さんはもたれていた壁から離れ、俺の前まで歩み寄ってくる。

「ねえ、ユウ。ここってさ、あたしが現役の時は結構有名なスポットだったんだけど、今もそうなの?」

「有名?」

「そ。有名な告白スポット。校舎裏なんてちょっとありがちだけど、実際ひとけもないし、告白には打ってつけの場所でしょ」

 確かに、そういう噂は聞いたことがある。主に鷺沼辺りから。

「たぶん、今もそうだと思うが……俺にはなんの縁もない話だし、実際そういう奴らがいるのか知らないな」

「寂しい話ね。あたしは結構、縁があったのよ。よくここに呼び出されては、十人十色な告白を聞かされたわ。結局、全部断っちゃったんだけどね」

「自慢話かよ……ていうかマジで全部振ったのか? 一人もよさげな奴いなかったのかよ」

「そんなこともないわよ。ラインとか手紙じゃなく、面と向かって告白してくるような人たちだったわけだから、あたし的には、みんな凄くいい人たちだったと思う」

「じゃあ、なんで全員……」

「ふふ、なんでだと思う?」

 訊き返しながら、更に歩み寄ってくる藍香さん。互いの体が触れ合うくらいの距離になり、思わずあとずさろうとした俺だったが、上目遣いに見上げてくる彼女の視線に釘付けとなった。仄かに漂う甘い香りが鼻孔をくすぐり、両の頬が熱くなるのを感じた。

「なんだよ、急に」

「……あはは、慣れてないからさ、こういうの」

 藍香さんは照れたように微笑んだ。少しだけ、幼い日の舞佳と重なるような表情にも見えた。

「あたしはずっと、受けるばかりだったから――こんな風に、自分から思いを伝えることって、なかったから」

「え……」

 それって、まさか――胸の内側で、一つの期待が波紋のように広がる。

 あるはずがない。そう思おうとしても、藍香さんのやけに真剣な眼差しを見つめられると、簡単に捨て切れない自分がいる。まさか本当に、藍香さんは――。

「ねえ、ユウ」

 ほとんど吐息だけで出来上がった声で呼ばれ、完全に目が離せなくなる。微かに濡れた彼女の両目がはっきりと揺れている。

「あたし、本当はずっと……ずっと前から、ユウのことが――」

 体のすべてが心臓になった気がした。バク、バクと、破裂しそうな鼓動が全身の至るところで鳴り響いている。彼女の声が続くのを待ち侘びている。

 そうして、わずかに震えている薄い唇が、続く言葉を紡ぎかけた――その時だった。

「――チッ、さっさと歩けるよ。マジとろ過ぎだし」

 曲がり角の向こうから突然の声。いくつかの足音も近づいてきているのが分かった。

「ユウ、こっちよ」

 すぐに藍香さんが俺の手を引き、反対側の曲がり角へと向かう。一種の思考停止に陥っていた俺は、校舎の陰に隠れ切ったところでようやく我を取り戻し、校舎裏に現れた人影が誰なのかを確認した。

 そして、目を疑う。

「……これは、予想外の場面に出くわしちゃったかもね」

 藍香さんも困惑しているようだった。校舎裏にやってきた二人の女子生徒を目にして。

 一人は、苛立ったように腕を組んで立つ、獅子手さんの姿。

 もう一人は、強張った表情を浮かべて獅子手の前に立つ――舞佳の姿だった。


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