36



 すれ違う生徒や教師からの奇異な眼差しの中を駆け抜けた俺たちは、ひとまずひとけのない校舎裏まで来たところで足を止めた。ここまで来れば一安心と言ったところか……。

「ふぅ、ユウも大胆になったものね。いきなりあたしの手を引いて走り始めたかと思えば、こんなひとけのないところまで連れ込んだりして」

 呼吸を整えながら明後日の方向に感心してくる藍香さん。ジャケットのボタンを外し、襟元でぱたぱたと首元を扇いでいる。一体どこから突っ込めばいいのか。

「藍香さんこそ、いきなりどうしたって言うんだ。そんな格好で学校に来て……」

「今日、大学を自主休講して暇になったから遊びに来てみようと思ったの。制服はアパートからこっそり取ってきたわ。まだ全然いけるでしょ?」

 丈の短いスカートをひらひらと揺らし、得意げに微笑んでくる。すらっとした太ももがちらりと垣間見え、俺の視線と思考は素直に停止してしまう。

 そんな反応が意外だったのか、藍香さんは珍しく不安げな色を笑みに混じらせ、

「……もしかして、似合ってなかった?」

「あ、いや、そういうわけじゃないが」

 似合う似合わないで言えば、当然似合っている。モデル並みのスタイルを持つ美貌なのだからなにを着たって様になる。ただ……、

「似合ってるけど、なんかこう、窮屈そうというか、そのせいで目のやり場に困るというか……」

「わぁ、それ現役の頃より太ったって言いたいわけ? 結構ズバリと言っちゃうのね、ユウって」

「いや、太ったとかじゃなくて、なんというか」

「冗談よ。ユウがそんなこと言える子じゃないことくらい分かってるわ。さっきからずっとやらしい目してたし」

「してない! 全然、これっぽっちもだ!」

「ふふふ、そう? じゃあ、ただ見惚れていただけってことにしといてあげる」

 軽やかに笑ってみせた彼女に、俺は疲弊感いっぱいの溜め息を零した。

 まったく、いつまで経っても子供扱いというか、手のひらで転がされている気がする。この人からすれば、俺はずっと出会ったばかりの頃と変わらない、からかい甲斐のある子供のような感覚なのだろう。だからどれだけ密着しても、どれだけ俺がドギマギしても、彼女の方はただ楽しそうにするだけなのだ。

 それくらいの距離感の方が俺も安心できる部分はあるが……俺だってもう高校生なのだから。からかわれてばかりもいられない。

「というかさっき、自主休講で暇になったって言ってたけど、それって要はサボりだよな? 自分の判断で勝手に休んだだけよな?」

「細かいことはいいじゃない。休みには変わりないんだから」

「言うほど細かくもないと思うんだが……」

「それより、舞佳はどこ? できれば舞佳の驚く姿も拝みたかったんだけど」

「そんな雑な話題転換には引っかからないぞ。今回はなにを企んでるんだ? まさか本当に遊びに来たってわけじゃないだろ」

「企むなんて人聞きが悪い。本当に遊びに来ただけよ。懐かしき学び舎の思い出に浸りたいって思って」

「嘘くせぇ……それなら、別に制服着て侵入なんかせずとも、普通にOGとして来れば」

「ま、それもそうなんだけどね。でもさ、一度はこんな風に、同じがよかったなぁって」

「同じ?」

「そ。ユウや舞佳と同じ制服、同じ学校、同じ時間……」

 ふっと笑みを零すと、藍香さんは校舎の壁に寄りかかった。日なたとの境界線が近いせいか、日陰に佇む藍香さんの顔がやや物憂げな色に染まっているようにも見えた。

「あたしたちってさ、同じ学校に通ってたこと、ないじゃない? だから、ユウや舞佳と同じ制服を来て、普通の先輩後輩って感じで学校生活を送っていたとしても、それはそれで面白かったかなと思って。ユウは、そんな風に考えたことはなかった?」

「それは……どうだろ。仮にそんな学校生活だったら、今よりずっと賑やかだったとは思うけど」

「でしょ? 絶対楽しかったわよね」

「そりゃ、藍香さんは楽しいかもしれないけど、俺と舞佳は……もっと気苦労が増えてたかもな」

「なによその言い方。まるで今も気苦労があるみたいじゃない」

「その通り過ぎて否定のしようがないんだが」

「むぅ、ユウの意地悪」

 わざと子供っぽく口元を尖らせる藍香さん。

 もし、三人が同じ学校に通えていたらか……つまりそれは、藍香さんがあと少しだけ、俺たちと歳が近ければということになる。あるいは同い年か年下だが、藍香さんはやはり年上でなければいけない気がする。そもそも舞佳の姉なのだから当然だが。

 幼い頃、俺と舞佳は同じ小学校だったから、学校の中で遊ぶ機会も多かったし、同じクラスになったこともあった。だけど藍香さんとは、決まって放課後だけだ。三人一緒の時も、藍香さんと二人きりの時だって……。


 ――『ユウ、約束よ。目の前にいる誰かが頼ってきたら、ちゃんと助けてあげて。お願いを聞いてあげて』

 ――『特に、あたしみたいな女の子が頼ってきたら、絶対にね』


 あの約束も、藍香さんと二人きりでいた時だった。

 俺が初めて見た、彼女の寂しげな表情――今でもはっきりと覚えている。

「なあ、藍香さん。訊いてもいいか」

「なに、改まって」

「なんで藍香さんは、俺とあんな約束をしたんだ? 誰かに頼られたら、助けてやれって……特に、自分みたいな女の子はって」

「……唐突ね、随分と」

 そう零した口元には、かつての寂しさが微かに滲んだ気がした。

「なんでって言われてもね、なんて返したらいいものか」

「まさか、特に理由はなかったのか?」

「いいえ、ちゃんとした理由があったわ。それは教えられないけど」

「いや、俺はその理由が知りたくて訊いたんだが……」

「ダーメ。これはあたしだけの問題じゃないもの。それに、なんでもかんでも教えてもらおうなんて虫が良過ぎるでしょ。それじゃ意味がないのよ、たぶん」

 俺は二の句を継げなくなった。なぜ彼女が、ここまではぐらかそうとするのか分からなかった。

 藍香さんだけの問題じゃない? どういうわけなのか。あの約束は確かに藍香さんとだけ交わしたものだ。ほかの誰も、関係がないはずなのに……。

 困惑する俺を見て、藍香さんはわずかに目を細めて笑う。頓に校舎裏へ吹き込んだ風が、彼女のラセットブラウンの毛先をふわりと弾ませた。

「ま、理由はともかく……本音はあたし自身が、誰かに頼りたかったのかもしれないわね」

「藍香さん、自身が?」

「その約束をした時のあたしって、たぶん結構、気が滅入ってたと思うから」

「滅入ってたって……」

 確かにあの時の藍香さんは、必死に涙を堪えているような表情だった。

 当時の俺は、その涙の意味が分からなかったが――もしかすると、彼女は。

「藍香さんは、知ってたのか? 藍子さんたちが離婚してしまうことを……あの時、すでに」

「……あたしはもう、高校生だったから。わざわざ言われなくても、なんとなく勝手に、理解できる年頃だったってだけよ」

 姉妹の両親が離婚すると分かったのは、藍香さんと約束してまもなくのことだった。

 彼女はすでに予期していたのだ。両親の関係が長くは続かないことを。

 だからあんなにも、寂しそうな顔をしていた。

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