第四話 浴室と校舎裏
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「ごめんなさい優真君。ちょっと遅くなっちゃって……あら?」
脱衣所から真幸さんの声が聞こえてくる。やや戸惑い気味にも感じられた。
俺は手筈通り、浴室の内側からわずかに戸を開け、顔だけを脱衣所側に出した。
「あ、ママさん。ちょうど今、浴室の掃除をしてるところです」
「そう? それにしてはなんだか、湯煙が多い気がするけど。まるでもうお湯を張っているような……」
不思議そうに訊ねてくる。想定内の疑問だ。
俺は彼女の位置から浴槽が見えないよう、戸の隙間に配慮しながら、
「ええ、まあ。浴槽の方はもう洗い終わったんで、湯張りもやっちゃってます」
「もう? まだ早過ぎるんじゃないかしら」
「実は今日、バドミントン部が大会に出てて。もうしばらくしたら帰ってくると思うんですよ。風呂から先という子もいるかなと思って」
あらかじめ用意していた尤もらしい理由に、真幸さんは「そういうことね」と表情を和らげた。
バドミントン部のことはさきぽんから聞いて知っていたことだが、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。サンキューさきぽん。次はフルネームが出るといいな。
「こっちは俺一人でやるので、ママさんは脱衣所、お願いしますね」
「ええ。いつも大変なところのお掃除ばかりでごめんなさいね」
「いや、全然大丈夫ですよ」
清々しい笑顔を心がけながら戸を閉める。それからまたデッキブラシによる掃除を再開させた。
――藍香さんと舞佳が、まだ浴槽にいる状態の浴室で。
「~~~~っ」
俺の背中に突き刺さる視線が痛い痛い……振り返らずとも舞佳からのものだと分かるのはなぜだろう。恥ずかしそうな息遣いが微かに聞こえているせいかもしれない。
一応、俺もちゃんと掃除をしなければならないので、デッキブラシをゴシゴシさせながら浴室内を移動する。その際、どうしても視線が浴槽に向いてしまうのは致し方ない。男としての本能……もありつつ、物理的な問題として。
舞佳は浴槽の隅で縮こまり、なるべく俺に胸元などが見えないようにと背を向けている。時折、真っ赤な顔のみをこちらに見せ、その度に睨むような視線を飛ばしていた。これがさっき背中に突き刺さっていた痛みの正体か。ぞわっとするほど鋭い眼光だった。
しかし同時に、舞佳の色白の肌に目を奪われそうになる自分もいる。背中だけと言えどその姿は充分に刺激的過ぎるし、むしろ恥じらいがある分余計に艶めかしいまである。
一方、舞佳より扇情的なスタイルの藍香さんはと言うと、
「~~♪」
浴槽の縁にもたれて湯に浸かり、微かながら鼻歌を鳴らしてくつろいでいる。こんな非常事態になんたる堂々。一点の恥じらいも見当たらない。
一応俺に背を向けている格好だが、俺がちょっとでも横から覗こうとすれば色々と見えてしまう体勢である。そんなことをしてくるはずがないと高を括られているのだとは思うが……この世には不可抗力や万有引力という言葉がある。あとは言わなくても分かるよな。もちろん我慢する努力はするが。
藍香さんとしては、このまま俺が掃除を続け、真幸さんがいなくなった隙に脱出するつもりだと思うが……果たしてそう上手くいくだろうか。
一応、指示通りにすべての手筈は整えている。しかし手筈通りに事が進むかは、もはや運次第と言わざるをえない。
「ねえ、優真君」
真幸さんが脱衣所から俺を呼んできた。
まずい。なにか怪しまれたのかもしれない。緊張しながら出入り口の傍まで近寄る。
「は、はい。どうかしましたか?」
「棚にあるはずのカゴが二つ足りないみたいなんだけど。なにか知らない?」
「ああ、それならちょっと汚れてるのがあったからこっちで洗ってたんですよ。終わったら俺が戻しておくので気にしないでください」
「そうだったの。じゃあよろしくね」
安心したような声で言うと、真幸さんはまた掃除に戻ったようだった。
カゴに関しては不思議がられると分かっていたため、答えを用意しておくことは難しくなかった。木や竹でできたカゴなら使えない誤魔化しだったが、プラスチック製だったことに救われた。
「ふふっ」
ふと、小さな笑い声。
見ると、浴槽の縁にうつ伏せで体を預けている藍香さんが微笑みを向けていた。
「いい感じね、ユウ。その調子よ」
小声で話しかけてくる藍香さん。浴槽の縁で胸元は隠されているもののあまりに大胆過ぎる体勢だった。俺は目を逸らしつつ「しーっ」と注意する。
「大丈夫よ。あたしが指示した通りに事が運べばね」
いや、そう上手くいくか分からないから不安なんだが――と、藍香さんの楽観さに呆れた時だった。
「きゃっ……!」
突然、浴室に響いた甲高い悲鳴。
振り返ると、舞佳がびっくりしたように身を翻らせていた。固く組まれた両腕から零れ落ちんばかりのたわわな胸元が覗いている。思わず見入ってしまうような光景だった――自分たちが危機的状況に陥ったことにも気づけないほどに。
「優真君? なに今の声?」
脱衣所からの呼びかけで、俺もハッとなる。
同時に、背筋を駆け抜ける悪寒。
まずい――このままだと、確実に戸を開けられてしまう。
浴室内に隠れられる場所はない。いくら湯煙が濃いからってそれで誤魔化せるのは漫画の世界だけだろう。もはやここまでか……。
「――ユウ、任せなさい」
刹那、藍香さんが動く。
彼女はすぐさま舞佳がいる場所――否、浴槽の隅へと向かった。
そして、――バシャバシャバシャバシャッと、窓際に積まれていた大量の桶をすべて湯船にぶちまけた。
マジかよ藍香さん――いや、俺も驚いている暇はない。
一か八かの方法だが、これでやり過ごすしかない。
「ちょっと、一体どうしたの?」
堪りかねたように、真幸さんが浴室の前までやってきて、ガラガラと戸を開けた。
「優真君? なにかあったの――え?」
浴室の光景を見て、真幸さんは目を丸くしていた。
大量の桶によって覆い尽くされた、浴槽の状態に気づいて。
「す、すみませんママさん。積んであった桶、落としてしまって」
俺は真幸さんの前に立ち、なるべく彼女の視線を阻んだ。それでも真幸さんは浴槽の方を見ようとしているが、その瞳に姉妹の姿は映っていない。
――恐らくこれが、一瞬のうちに思いついたのであろう藍香さんの策。
大量の桶で湯船の水面を多い、その下に潜り込んで姿を隠す作戦。
なんとも強引で無理やりな手段ではあったが、どうやら上手くいったようで、真幸さんの目にはところ狭しと浮かんでいる桶の大群しか見えていない。
「落としたって、なにかあったの?」
「いえ、その、ちょっと勢いよく掃除してたら足を滑らせたんですよ」
そう言い訳しつつ、自然な具合に真幸さんを脱衣所へと押し戻す。俺も足拭きマットの上に上がり、後ろ手にゆっくりと戸を閉める。
「そう……でも、その前になんだか、女の子の悲鳴みたいな声も聞こえた気が」
「それは、俺も聞こえましたけど、なんか外だったみたいですよ」
「外?」
「浴室は窓を開けながら掃除してたんで、そこから声が入ってきたんですよ、たぶん」
「それにしては、やけにはっきり響いてたような……」
ぐ、やっぱりこれだけで誤魔化すのは無理があるのか。しかし、ほかに尤もらしい言い訳は……などと密かに苦心していた時。
「あら、電話だわ」
スマホに着信があったのか、俺の前で通話を始める真幸さん。
ほどなく通話を終えて、
「ごめんなさい優真君。早稲田君から連絡があって、男子寮でちょっとトラブルがあったみたいで……すぐ来てほしいって、珍しく慌てた様子でね」
――遂に来たか、と俺は確信した。
「え、あの早稲田が? それはきっと大変です! すぐ戻った方がいいですよ!」
「いえ、でも……」
「ここは俺一人でも大丈夫ですから! むしろ一人でやらなきゃというか、孤独かつ孤高になってこなしたい気分ですから!」
思いのほか猛烈なアピールになってしまった。すまん舞佳。誰だって孤独にならなきゃいけない時はあるみたいだ。お前は間違っていない。
真幸さんは若干引いていたが、優しさからか特に言及はしてこず、
「そ、そう……じゃあ、ここはお願いしちゃおうかしら。早稲田君も心配だし」
「早く行ってやった方がいいと思います。きっとママさんを必要としているんです」
「ふふ、優真君ったら友達思いなのね。じゃあ残りはよろしくね。くれぐれも寮生に気をつけて」
それだけ言い残すと、ようやく真幸さんは脱衣所から去っていった。
その後まもなく、浴室の戸が少しだけ開いて、
「ね、なんとかなるものでしょ?」
と、呑気な笑顔がひょっこり出てくる。
窮地を脱したばかりとは思えない軽やかな表情に対し、俺は目いっぱいの溜め息を零してその場にへたり込んでいた。
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