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 結論から言うと、大マジだった。

 マジで藍香さんは、俺と一緒に女子寮へ入り、俺が掃除をしている間に風呂を頂く算段らしかった。悲しいかな、当然の如く断れなかった俺も結局その危険な綱渡りに加担させられる破目になった。

「無茶が過ぎるぞ……」

 溜め息混じりに呟きながら、俺は早速女子寮の中を進んでいた。寮の構造は男子寮とほぼ同じであるため、外の非常階段を使えば二階の大浴場まで行くことは難しくない。

 念のため、まずは浴室に誰もいないことを確認しておく。寮の大浴場は横長に広く、スライド式ドアの出入り口から向かって左奥にシャワーゾーン、その反対側に浴槽がある。浴槽は室内の三分の一ほどを占めるほどのいかにも大浴場という感じのキャパシティだ。窓際の段にピラミッド型で積まれた寮生分の桶や椅子なんかも大浴場らしい要素の一つと言えるだろう。

 浴室の構造や雰囲気は男子寮とまったく変わらないはずなのに、ここが女子寮であることを思い出すとどうしてか多大な疚しさを感じてしまう……もう何度も足を踏み入れているが、この感覚だけは慣れなそうにない。

 微かな罪悪感と胸のドキドキを堪えつつ、早速湯張りの準備に取り掛かる。まず浴槽の排水栓を閉め、浴室の隅にある鉄板を開く。中には太い水管が二つ通っており、それぞれの水管の表面に取りつけられている赤と青の栓を適度に緩めると、湯口から滾々とお湯が流れ出してくる。あとは浴槽がいっぱいになるのを待つだけだ。

 大浴場をあとにし、勝手口から外に出る。手すり子から一階にある裏口の辺りを覗き込んでみると、藍香さんと舞佳が立っているのが見えた。二人ともお風呂セットを入れているのであろう鞄を手に提げており、階段の陰に隠れるようにして佇んでいる。とりあえずは見つからずに敷地内まで来れたらしい。俺も静かに階段を降りて二人のもとへ向かった。

「ああ、ユウ。遅かったじゃない。一体なにして……え?」

 気配に気づいて振り返った藍香さんだったが、俺の姿を見てぎょっとしていた。ついでに隣にいる舞佳も口をぽかんとさせている。

 ……まあ、なんとなく理由は分かるが。

「ユウ、なにその格好? なんでツナギなんか着てるのよ?」

 まあ、やっぱそういう反応になるよな。ある意味予想通りだった。

 藍香さんの指摘通り、今の俺はいつもの制服姿でもエプロン姿でもなく――工場の作業員風の格好をしていた。細かく言えば、灰色のツナギにワークキャップ、更にマスクまでして顔を隠している。普通の高校生らしからぬ格好と言えた。

「まあ、なんと言うか……これは俺の、制服みたいなものなんだよ。女子寮で手伝いをする時の」

「せ、制服……?」

 戸惑い気味に訊き返す舞佳。目を丸くし、まじまじと俺のツナギ姿を凝視している。

 ――こんな格好をするようになった発端は、初めて女子寮の手伝いをすることが決まった時。

 当然、同じ学校の男子が女子寮に入るのはまずいのではという話にはなった。いくら寮母さんが了承しているとしても、もし寮生に見つかれば不快に思われるのではないかと……そこで真幸さんが、この服装を提案したわけだ。

『じゃあ、優真君には業者さんの格好になってもらいましょう。それできっと大丈夫よ』

 ……いや、なにが一体大丈夫なのか。

 最初は真幸さんのちょっとしたボケだと思っていた俺だが、なぜか女子寮の寮母さんも『それなら大丈夫ね』と納得してしまい、実現してしまったわけだ。

 言わばこの姿は、万が一女子寮の生徒に見られた際に業者の人だと誤魔化すための変装なのである。

 運がいいんだか悪いんだか、今のところ誤魔化すような機会もなかったわけだが……俺としてはやっぱり不安だらけだ。キャップとマスクのせいでむしろ不審者感が増しているんじゃないかとさえ思っている。

「ふふふっ……まあ経緯はともかく、寮母さんの趣味も悪くはないわね。ユウのツナギ姿、結構似合ってるわよ」

 にやにやしながら褒めてくる藍香さん。笑いを我慢しているような表情からして絶対からかっている。

「いや、別に全然嬉しくないんだが」

「そんな悲観的にならなくてもいいじゃない。本当に似合ってるわよ? 男くささが増してるっていうか、ザ・働く男子みたいな」

「そんな緩み切った顔面で言われて素直に喜べるかよ……」

「まあ、正直面白がっちゃってるのは認めるわ」

「認めるのかよ……」

「でも、似合ってるのは掛け値なしに本当よ? その証拠にほら、舞佳なんてときめき過ぎちゃって目も合わせてこないでしょ?」

「な――っ!」

 舞佳が驚いたように声を上げる。夕陽のせいか、少しだけ顔が赤らんでいるように見えた。

「なに言ってるのよ姉さん、私は、ときめいてなんか……っ」

「そう? じゃあユウのことちゃんと見てあげなさいよ。まっすぐ健気に見つめてご覧なさいよ」

「っ……」

 藍香さんに促され、舞佳が俺の方を向く。

 が、目が合ってしばらくすると、すぐにぷいと視線を外された。

 ……どう考えてもときめかれているようには見えないんだが。

「ね、言ったでしょ? 舞佳はユウを直視できない精神状態に陥っているわ。結構多いのよねー、作業服フェチの子って」

「そんな啓蒙高いフェティシズムがあって堪るか」

「もう、相変わらず女心が分かってないんだから。そんなんじゃせっかくのツナギ姿が泣くわよ?」

「泣きたいのは俺の方なんだが……」

 そう俺が突っ込んだ頃、居たたまれないような顔だった舞佳が踵を返し、

「もう、いつまでもバカみたいな話してるのよっ。時間がないんだから早く行きましょう」

 と、非常階段に向かい始めた。その姿を見て、藍香さんも「はいはい」と苦笑しながらついていく。

 二人とも、ちょっと緊張感がなさ過ぎるんじゃないだろうか。気が緩み過ぎているというか……一抹の不安を覚えながら、俺も早歩きで二人のあとを追った。


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