29

「優真君? 帰ってきてるの?」

 続いて、外から真幸さんの声。

 すぐさま二人が身を隠し始める。藍香さんはもちろん、舞佳もすでに手慣れた様子だった。

 二人が隠れるのを待ってから、俺は玄関のドアを開けた。外にはエプロン姿の真幸さんが立っていた。

「ああ、ママさん。ただいまです」

「おかえりなさい。もしかして帰ってきたばかりだった?」

「え、なんでですか」

「だって優真君、まだ制服のままだから」

 指摘されて、そうだったと思い出す。藍香さんの与太話に付き合っていたせいでまだ着替えていなかった。

「まあそんなとこです。ママさんはなにか用ですか?」

「ええ……帰ってきてすぐで申し訳ないんだけど、こないだ言ったことでね」

「こないだ?」

「ほら、峰見寮の。そろそろお願いできいかしらと思って」

 そこまで言われて、俺もようやく合点がいく。

 あんまり気が進まないのと、ここ数日はそれどころじゃなかったから素で忘れていた。

「すみません、このところ色々あったので」

「色々って、なにか悩み事? 学校でなにかあったの?」

 心配そうに訊ねてくる。こういうさりげない気遣いがほかの寮生にも人気があるゆえんだろう。

 それだけに、今の悩み事を打ち明けることはためらわれた。というか、真幸さんだけには知られるわけにはいかない悩みだ。

「大したことじゃないですよ。それより峰見寮ですよね。今から行きましょうか」

「本当に? 大丈夫?」

「はい。どうせなら、忘れないうちに行っておきたいので」

「ありがとう、優真君。じゃあ準備しないとだから、着替えたら私の家に来てね」

「あ、はい……了解です」

 少しだけ引きつった顔で真幸さんを見送り、ドアを閉めた。

 鍵もしっかりかけてからリビングに戻ると、隠れていた二人が姿を現す。

「毎度毎度、突然来るわよねあの寮母さん。隠れるこっちの身にもなってほしいわ」

 ぐるぐると肩を回しながら愚痴る藍香さん。それを言うなら匿うこっちの身にもなってくれという話だが。

「それでユウ、なんの話をしてたのよ。峰見寮がどうとか言ってたわよね」

「峰見寮って、確か女子寮……」

 二人して訝しい目を向けてくる。

 どうやら真幸さんとの話は筒抜けだったらしい。今回は二人ともユニットバスに隠れていて玄関から近かったからだろう。

「なんで男子寮の寮母さんが、ユウに女子寮の話を持ち込んでくるわけ? ていうかまさか、今から女子寮に行く気じゃないでしょうね」

「まあ、そのまさかではあるけど。峰見寮にもたまに手伝いに行ってるんだよ。掃除とかで」

「ユウが女子寮の掃除ですって? なに言ってるのよユウ、あなたは男子なのよ? 男子が女子寮に踏み入るなんてとんでもない規則違反じゃないの。信じられないわ」

「なぜだろう、ガチ正論のはずなのにまったく沁みてこないんだが」

「あたしは別にいいもの。ユウの承諾を得て入り込んでるから」

「そんな承諾を与えたつもりは毛頭ないんだが……大体それを言うなら、俺だって頼まれて行ってる身なんだから。藍香さんにとやかく言われる筋合いないだろ」

「ふぅん、正義は我にありって顔ね。そんなに言うんなら、女子寮でどんなことやってるか説明しなさいよ。後ろめたいことがないならなにも問題ないはずでしょ?」

「だから、主にただの掃除だって。女の人だと重労働になって大変そうとことか、男手が要りそうなとことか」

「例えば?」

「ええと、厨房とか庭とか、あと風呂場……」

「お風呂ですって?」

 強い声で訊き返され、しまったと思った。

 が、時すでに遅しか。

「へー、ユウって女子寮のお風呂掃除までやってるのねー……やーらしー」

「女子寮……お風呂……」

 意地悪げに目を細める藍香さんと、意味深なワードのみ呟いている舞佳。

 明らかによからぬ誤解を与えていた。

「なんかすげえ怪しんでるみたいだが、俺は本当に手伝いに行ってるだけだからな。峰見寮の寮生にだって、ちゃんと迷惑がかからないよう配慮もしてるし……」

「あ! 閃いたわっ」

 俺の弁明を遮るように、藍香さんが声を弾ませて言った。

「つまりユウは、今から女子寮に行くのよね?」

「は? まあ、そうだけど」

「女子寮に行って、お風呂場の掃除もするのよね?」

「たぶん、そういうことになるだろうな」

「なるほど。それならちょうどいいじゃない。すべてが万々歳じゃない」

 ふふんと口角を上げた顔を見て、嫌な予感が脊髄を駆け抜ける。

 その予感はすぐに現実のものとなった――藍香さんの、これ以上ない明瞭な声によって。

「女子寮の大浴場を借りればいいのよ。ユウと一緒に忍び込んでね」

 ……マジですか、藍香さん。


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