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 学校が終わって寮の自室に戻ると、すでに藍香さんが帰ってきていた。ソファの上であぐらをかき、いつものようにゲーム画面と睨めっこしている。どことなく不機嫌そうにも見えた。

「早いな藍香さん。受けてる講義が少なかったのか?」

「あたし、お風呂に入りたいんだけど」

 早速会話になっていなかった。なんだ唐突に。

「入ればいいだろ。夕方だからまだ早過ぎるとは思うけど」

「違ーう。この部屋じゃなくて、もっとゆっくり足を伸ばせるお風呂がいいの。本物のユウならそれくらい察しなさいよ」

「偽物がいるみたい言い方をするな」

 そう突っ込みつつも、俺は藍香さんの望まんとすることも理解していた。

 確かにここの浴室だと、基本的にはシャワーしか浴びることができない。湯を張ることも不可能じゃないが色々と面倒だし、藍香さんの言うように足を伸ばして入れるほどの広さもない。

「ユウの部屋、最初は凄くいいって思ってたけど、やっぱりユニットバスはダメね。数日くらいなら我慢できるけど、さすがに湯船が恋しくなってきちゃった。もう限界なのよ」

「家出の身で贅沢なこと言うなよ……そんなに湯船がいいなら、銭湯にでも行ってくればいいんじゃないか?」

「他人の目があるところは嫌。気が休まらないじゃない」

「意外に繊細だな……じゃあ、風呂だけアパートに入ってくるとか」

「却下。お母さんと鉢合わせたら気まずいし、ここから結構距離あるし。湯冷めするかもしれないじゃない。あーあ、こんな時にユウの前の家があったらねえ。ちゃんとしたお風呂も入り放題だったのに」

 コントローラーを投げ出して天を仰ぐ藍香さん。

 彼女の言い方だと、俺が前に住んでいた家は跡形もなく消えてしまったような感じだが、貸家だったのでもちろん消えてなどいない。今も一応、元の場所に空き家として存在はしている。だからと行って忍び込んで風呂を使えるわけでもないが。電気も水道も通っていないだろうし。

「そんなに嫌々ばっかりなら諦めるしかないだろ。ほかに入れそうな風呂もないわけだし」

 お手上げ、という感じの俺に対し、藍香さんは「ちっちっちっ」と人差し指を振り、

「ところがどすこい、なのよ」

「どっこいだろ。なにさりげなく四股踏んでんだよ」

「実はもう、入れそうなお風呂を見つけてあるってわけ。それもかなり身近に」

「……まさか、この寮の大浴場とか言い出さないよな?」

「そうよ。なにか問題ある?」

 マジできょとんとした顔だった。俺の口から溜め息が逃げ出していく。

「大ありに決まってんだろ。どんな思考回路してたら問題ないって判断になるんだ」

「だって、ここの寮生ってみんな部活動生で帰りが遅いから、今は誰も利用してないわけでしょ? さっと入ってさっと上がればバレないんじゃない?」

「そういう問題じゃない上に色々と危険過ぎる。大体、今はまだ湯張りもできてないし、どのみち湯船には浸かれない」

「湯を張ればいいじゃない。お手伝い大好きなユウのことだから、どうせやり方とかも把握してるんでしょ?」

「そりゃ、分かってはいるが……普通に不審がられるだろ。こんな時間に湯張りなんかしてたら」

「えー」

 口をへの字に曲げる藍香さん。この人、本当に俺より年上なのだろうか。昔は本当にお姉さんという感じだったのに、最近はむしろ子供っぽく見える気がする。精神年齢だけタキオン粒子に乗って時間遡行しているんじゃないだろうか。

 頭を抱えていると、玄関の方からドアが開かれる音が聞こえ、制服姿の舞佳が帰ってきた。

「ただいま」

「お、おう……おかえり」

 ついぎこちない返事になってしまう。

 ――あのあと、次の授業に戻ってきた舞佳は、保健室での一件をまったく覚えていないようだった。廊下で俺と話していた辺りまでしか記憶がなく、気づいたらベッドで目を覚ましていたという。やっぱりあの時の舞佳は正気ではなかったわけだ。

 都合のいい話にも思えるが、俺の方にはばっちり記憶にあるわけで、舞佳の顔を見るとやはり思い出さないわけにはいかない……一応望まれたこととは言え、舞佳にキスしようとしたなんて。顔から火炎放射が出そうなくらい恥ずかしくなる。

「……なに? 人の顔をまじまじと見て」

「いや、別に。なんでもないけどな、ははは」

 などと誤魔化していると、俺と舞佳の間に藍香さんが割って入ってきて、

「ねえ舞佳。お風呂、入りたくない?」

「……は?」

 姉からの突然の問いかけに、舞佳はジトっとした眼差しになった。

「なに言ってるの姉さん。まだ夕方よ? 爛れた生活を送っているせいで体内時計が狂ってしまったの?」

「誰が爛れた生活よ。あたしは極めて健康的で品行方正な生活を送っているわ」

 男子寮に寝泊まりしている時点で品行方正ではない。

「じゃなくて、お風呂よお風呂。舞佳だって、ずっとシャワーばっかりじゃリラックスできないでしょ?」

「……ああ、要するに姉さんは、湯船に浸かってゆっくりしたいということね。できれば足が伸ばせるくらいの広いお風呂で」

 おお、さすがは姉妹。姉の願望を完全に読み切っている。

「そういうこと。正直、あたしは溜まってるわけよ。フラストレーションって奴が。そして気づいたのよ。疲れた体が一番癒されるのは、やっぱり湯船に浸かって一息つけるあの瞬間なんだって。失って初めて気づくものってあるわよねー。通りで最近、体の疲れが抜け切らなくて怠かったわけだわ」

「ああ、そう……」

 肩をほぐすようなジェスチャーをする藍香さんに対し、舞佳の眼差しはどこか恨めしそうだった。

 これは俺の推測だが、舞佳からすれば『自分にじゃんけんで勝って毎日ベッドでぐっすり眠っているくせに寝惚けたこと言ってんじゃねえよ』的な不満ではないだろうか。まあこんな乱暴な口調ではないにせよ。

「でも、姉さんの言うことも分からなくもないわ。私だって、広いお風呂に入れるんだったら入りたい」

「そうよね。やっぱり舞佳もそう思うわよね」

「入れれば、という話よ姉さん。実際はそんな都合のいいお風呂なんて、この辺りにはないじゃない。姉さんって銭湯みたいなところも苦手だったでしょう?」

「その辺りはユウと入念に検討したわ」

「待て。あれのどこが検討だったんだ。無茶ぶりの間違いだろ」

「ユウはちょっと黙ってて。それでね、あたしも代替案を出したのよ。ほかの寮生が出払っている今のうちに、ここの大浴場にこっそり入ればいいんじゃないかって」

 まるで決定事項のように説明する藍香さん。横暴だ。邪知暴虐の王だ。除かねばければならないがそれができるなら何日も住みつかれてなんかいない。

「ここのって……男子寮のお風呂にってこと?」

「そうよ。なにか問題ある?」

「…………」

 なぜか顔を青ざめさせる舞佳。

 それから、自分の体を抱き締めるようにして身を震わせ、

「む、無理っ」

「えー、どうしてよ」

「だって……いくらお風呂だからって、男子寮のなんて……」

 なるほど。そういう理由で嫌なのか。

 納得できないこともない。というか、女子なら抵抗があって当然のように思えてくる。

 これには藍香さんも困った顔になり、

「そう……でも、あたし一人で入るのも嫌なのよね。たまには姉妹水入らず、裸の付き合いでゆったりまったりしたいと思ってたんだけど」

「こっそり大浴場を使ってる時点で、呑気にゆったりまったりは入れないと思うけどな」

 と、俺が冷静に突っ込んだ時――コンコンコンと、聞き慣れたノックが玄関から響いてくる。

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