27

「なあ、舞佳……どうしてさっき、あんなこと言ったんだよ」

 思わず、声に出してしまう。

 独り言にしかならないと分かっていた。それでもなんとなく、問いかけるような口調になっていた。

「孤独にならなきゃいけないなんて。そんなの、普通は嫌なもののはずだろ。特に、舞佳は……」

 離ればなれになって、彼女がどんな中学時代を過ごしたかは分からない。

 しかし分からずとも、きっと今のように孤高な……いや、孤独な少女だったのではないか。そもそもが内気で人見知りで、藍香さんがいなければ俺ともまともに話せないような女の子だったのだから。今と同じように孤立していたとしても不思議ではない。

 そしてそれは、彼女にとって決して嬉しいものではないはずなのに、どうしてこれ以上、独りを望もうとするのか。

「……いられ、ないから……」

 微かな涙が混じった、か細い声が返ってくる。

 びっくりして彼女を見たが、目蓋は閉じられたままだった。どうやら寝言で答えてきたらしい。

 口元はまだわずかに動いていて、また掠れた声が続いていた。

「ずっと……一緒には、いられないから……お姉ちゃん、とも、それに――……」

 声が途切れる。

 表情には先ほどのような笑みはなく、幸せとはほど遠い悲しげな色が滲んでいた。


 ――『ユウ君は、大きくなったら、私の――に、なってくれる……?』


 ……どうして今、その約束を思い出したのだろう。

 いや、正確に言えばまだ思い出せてはいない。未だに不鮮明で、どんな状況で言われたのか、舞佳がどんな顔をしていたのかは分かっていない。その約束を叶えてやれたのかどうかだって。

「一緒にはいられないから、か……」

 確かにそうだ。俺たちは一度離ればなれになり、一緒にいられなくなった。その結果、舞佳だけが孤独になってしまった。独りにさせてしまった。

 だからって、それを今も引きずる必要なんてない。もう過去の話だ。

 きっかけは唐突だったにせよ、今はまた三人、一堂に会することができたのだから。

「……そんな、悲観的に思わなくたっていいだろ」

 ぽつりと、宛先のない声が零れる。

 確かに俺は、離ればなれになったあとの舞佳を知らない。なにも知らない。

 それでも、やっぱり今の舞佳は、無理をしているようにしか見えない。

 自ら進んで、独りになろうとするなんて――。

「そんなの……舞佳らしくない」

「……私、らしく……」

 微かな声が返ってきて、俺はハッと舞佳を見た。

 彼女の目蓋は閉じたままだった。先ほど同様、寝言で答えたのだろう。

 だからなのかは分からないが、一瞬だけ聞こえた舞佳の声は、少しだけ昔のような素直さを感じさせるものがあった。

「……そうだよ。もっと昔みたいに、頼ってくれてもいいんだぞ」

 寝言だと分かっていながら、なんとなく俺も、彼女に向けた言葉を続けていた。

「俺だけに限った話じゃなく、藍香さんでもいいわけだし……まあ、正直寮で居候は勘弁してほしいっていうか、頼る方向性がいきなりぶっ飛び過ぎてた感はあるけど」

「――……っ」

 しおらしかった舞佳の目尻に、またぎゅっと力が込められる。

 和ませようとしたつもりだったが、居候の話を持ち出したのは逆効果だったかもしれない。

 大体、舞佳はもう眠っているのだから。これ以上、寝言で返してくる相手と話したって不毛なだけだ。ただの自己満足でしかない。

「俺、そろそろ戻るな。ゆっくり休んでから教室来いよ」

 一応それだけ言って立ち上がろうとした俺だが、繋いでいた手が上手く離れてくれなかった。手をほどこうとするとぎゅっと力を込められてしまう。

「舞佳? 起きてるのか?」

「……きす……」

「え?」

「できなかった……きす、続き……」

 一瞬、なにを言われているのか分からなかった。

 けれど理解してしまうと、視線が操られたように――舞佳の薄い唇に吸い寄せられる。

 同時に、恥ずかしさが全身に拡散した。耳の先まで熱っぽくなった気がする。

 舞佳はきっと夢を見ている。夢の中で、幼い日の光景を思い返している――恐らく、俺とのままごとでキスをしようとしてまった出来事を。

 なぜよりによって今この瞬間なのかは分からないが、寝惚けている相手に理屈なんて通用するはずがない。

「……嫌……?」

 寝言ながら寂しそうに訊き返してくる声がこちらの良心を苛んでくる。

 まるで昔の再現だ。あの時も舞佳はやけに不安そうだった。キスをためらう俺を見て、今にも泣いてしまいそうな顔をしていた。だから俺も、絆される形で唇を重ねようとした。

 今もそうだ。俺はキスを躊躇している。でもそれは子供の時のような理由じゃない。年相応の恥じらいというものがあるし、なにより今の舞佳は正気じゃない。いくら望まれたって、こんな状態の彼女にキスなんてするべきじゃない。

 それなのに、俺は――こんな顔をされてしまったら、どうしようもなくなってしまう。

「嫌ってわけじゃ、なくて……」

 俺の返事もほぼ昔通りのはずなのに、どうしてか卑怯な言葉のように思えてくる。体は少しだけ前のめりになり、舞佳の唇に引き寄せられるように自分の顔が近づいていく。

 断ることができない。自分はそういう性分、あるいはそういう約束、あるいはそういう呪い――けれどどこにも、自分の意思はない。ただ悲しくされるよりはいい……そんな気持ちだけが胸の内側で渦巻いている。

 じゃあ、このキスだってそんな理由なのだろうか。ただせがまれたから、お願いされたから、俺は舞佳と唇を重ねようとしているのか。俺自身の望みは、彼女への気持ちはまったくないと言い切れるのか。

 高校生になって舞佳と再会した時……いや、そのずっと前から、俺はなにかを望んでいた気がする。それもまた、不鮮明な約束のようにぼんやりとしているが、確かに願っていたことだった。

 本当は、ずっと一緒にいたかった――なに一つ変わらないまま、昔のように。

「……すぅ、すぅ……」

「……あれ?」

 鼻先にふわっとした温もりを感じ、俺はハッとなる。

 見ると、互いの唇はもう触れ合う寸前の距離だったが、舞佳の方は穏やかな寝息を取り戻していた。離れまいと込められていた手の力もなくなっており、俺は難なく手を離すことができた……こいつ、人が滅茶苦茶ドキドキしている傍で、なんとまあ気持ちよさそうに。

「いや、これでいいのか……」

 舞佳から離れ、肺が空になる勢いで溜め息をつく。

 そもそも俺は舞佳を休ませに来たのだから。ちゃんと眠ってくれて正解だったのだ。なにも残念がることはない、というか、もしこのままキスをしていたら彼女の寝言を言い訳に寝込みを襲ったみたいになってしまう。そうでなくとも舞佳は正気ではなかったのだから、もしやらかしていたら罪悪感でもうまともに舞佳と向き合えなかっただろう。危ういところだった。

 俺はベッドを囲む白いカーテンを閉め、保健室の机にメモを残してから教室に戻った。全身が火照るような感覚や胸のドキドキはまだ治っておらず、階段を上がる足もふわついていて転びそうになった。やっぱり俺も保健室で休んでおくべきだったかもしれない。


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