22

「待ってくれ、真幸さん」

 俺はクローゼットの前に先回りし、神妙な面持ちで言った。

「このクローゼットは……開けない方がいいです。特に真幸さんは」

「どうして? 私、動物は苦手じゃないわよ? 昔は猫を飼ってたこともあるし、扱いには慣れてるから」

「そういうことじゃないんです。この中にいるのは動物というか、生き物であることには違いないんですが……実は、さっきまで俺、この中で格闘していたんです。それでちょっと、段ボール箱とかも動かしたりしてて」

「格闘って、なにと?」

「そりゃあ、部屋の中で格闘と言ったらあれですよ……真幸さんなら分かりますよね?」

 固唾を飲み込み、只事ではないように訊ねる。

 真幸さんは首を傾げ、しばらく呆けたような顔をしていた――が、遂に思い至ったか、急に顔を青ざめさせる。

「もしかして……A、B、C、D、E、F……?」

「の、次のやつです」

「…………」

 くるりと踵を返す真幸さん。

 小さな背中が、少しだけ震えているように見えた。

「じゃ、じゃあ優真君、お、おおお、おやすみなさいっ」

「あ、はい。ママさんもおやすみなさ……」

「格闘! 頑張ってね! ぜ、ぜぜ絶対に、仕留め切ってね……!」

 遮るように言うと、真幸さんは逃げるように部屋から飛び出していった。

「悪い、ママさん……」

 Fの次の文字は、もちろんG。

 今回の場合、それが指し示す存在とは――すなわちゴキブリのこと。

 そう、真幸さんはゴキブリが大の苦手なのだ。実際に出くわしたら卒倒するほどらしく、少し前に厨房で見かけた時なんか大慌てになったことがあった。

 真幸さんの異常なまでのゴキブリ嫌いを知っていたからこそ取れた策ではあったが、不用意に怖がらせてしまったことには申し訳なさを覚える。嘘をついてしまったことにも。

 とは言え、なんとか姉妹がいることは知られずに済み、安堵感から大きな溜め息をついた頃、

「――もう、限界!」

 部屋の奥から勢いよく戸が開く音と、切羽詰まった藍香さんの声がして、

「きゃっ……!」

 ついでに床を打つ鈍い音と、舞佳の短い悲鳴が連なった。

 振り返ると、クローゼットの前に二人が倒れ込んでいるのが見えた。

「だ、大丈夫か?」

 すぐさま駆け寄った俺に対し、藍香さんはぎろりとした目つきで見上げ、

「……大丈夫に見える?」

 口元には笑みを浮かばせていたが、その顔は明らかに不機嫌そうだった。

「ええと、やっぱ二人で隠れるには苦しかったとかか?」

「まったくもってその通りよ。こんな狭いところにあたしと舞佳を押し込めて。ユウじゃなかったらとんでもない変態行為として訴えてるところよ」

「俺の記憶では、藍香さんが舞佳を連れて勝手に逃げ込んでいたと思うんだが……それはそうと、途中でなんか音を立てなかったか? ガタガタって」

「――っ」

 藍香さんに訊いたつもりだったが、なぜか舞佳の方が顔を赤くして目を逸らしていた。その姿を見た藍香さんが「ふふっ」と苦笑し、

「あたしたち、狭いクローゼットの中で抱き合って、物音を立てないように必死に息を殺してたのよ。そしたら舞佳がねぇ」

「ね、姉さん……!」

「舞佳が、可愛い音鳴らしちゃったのよねぇ……お腹を、くぅ~って。それであたし、つい笑いそうになっちゃって」

「~~~~っ」

 舞佳は更に顔を紅潮させると、やがてバツが悪そうに俯いていた。なるほど。それで動揺した拍子に箱かなにかを落としたわけか。

 そういえば、二人は夕方からこの部屋にいるが、ちゃんと夕食は取ったのだろうか。

「藍香さんは、飯を食べてからここに来たのか?」

「もちろんよ、泊めてもらおうっていうのにご飯まで作ってもらったら悪いじゃない。そういう礼儀は心得ているのが常識的な大学生ってものよ」

「常識的な大学生なら、まず高校の男子寮に泊まろうって発想は生まれないと思うんだが……舞佳は? もしかしてご飯、まだだったとか?」

「……っ」

 無言だったものの、舞佳は正直に頷いていた。

 俺は少しだけ考えたのち、部屋にある小さな冷蔵庫を開けて中を確認してみた。この部屋で料理することはほとんどないが、ちょっとした夜食を作るくらいの食材は常備している。大したものは作れないが一人分ならなんとかなりそうだった。

「じゃあ、今からなにか作るよ。もう夜も遅いし、軽いものでいいよな」

「え? でも……」

「大丈夫だ。すぐにできるから待っててくれ」

 そうして俺は、冷蔵庫に余っていたミニトマトやハムを小さく切り分け、次にハサミで春雨を慎重に切っていく。それらを水と共にマッグカップへ入れ、鶏ガラスープの素や塩こしょうを加える。

 少しかき混ぜたあと、ラップをして電子レンジで温める。加熱が終わったらレンジから出して、ごま油を回しかけていり胡麻を散らす。

 鍋を使わずに五分程度で作れる、ミニトマトとハムの春雨スープができた。

「ほら、本当に大したものじゃないけど」

 ミニテーブルにマグカップを置き、スプーンと共に舞佳の前に差し出す。

「これ、今作ったの……?」

「ああ、見てただろ?」

「ええ、見てたけど……」

 信じられないと言った顔の舞佳だったが、恐る恐るカップとスプーンを手に取るとようやく口をつけ始めた。

「……美味しい」

 思わずという感じの声を零し、手を止めることなく食べ進めていく。どうやら気に入ってくれたらしい。俺も自然と口元が緩んだ。

「口に合ったようでよかったよ。あんまし手は込んでないけどけど、夜食ならそれくらいの方が……」

「はー。うっらやましぃー」

 突如割って入ってくる間延びした声。

 見ると、ソファに胡座している藍香さんが口をへの字に曲げていた。

「え、なに? 羨ましい?」

「べっつにー。あたしの時とはえらい違いだなーって思っただけ」

「藍香さんの時……ああ、もしかして昨日のことか? 藍香さんにもちゃんと作っただろ」

「いやいや、あたしはカップラーメンだったし。なのに舞佳にはお手製の春雨スープとか、なにこの差別? 到底看過できないんだけど」

「いや差別って。夜遅い時間にラーメンは嫌だろうと思って軽食にしただけだ」

 弁明するも、藍香さんの機嫌は直らず、

「差別だー。くそー、訴えてやるー……」

 などと言って顔をむくれさせていた。この程度のことでどこへ訴えるつもりなのか。

「……これ、姉さんは食べてないんだ……」

 呟くような声が聞こえ、舞佳に視線を戻す。

 スープを見つめる彼女の口元が、わずかに綻んでいるようにも見えた。


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