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 対照的に、舞佳との約束は、ぼんやりとしか思い出せない。

 舞佳は俺と同い年で、とても大人しい少女だった。俺もそこまで活発な性格ではなかったが、彼女は幼い頃の俺よりも更に物静かで、いつもなにかおどおどとしているような少女だった。藍香さんが一緒でなければまともに言葉も発さないほどで、舞佳と二人きりの時はだいぶ苦労した覚えがある。特に初めて出会ったばかりの頃は会話を続けるだけでも大変だった。

 けれど小学校でも一緒に遊ぶようになると慣れてくれたのか、藍香さんがいない時でも普通に話をしてくれるようになった。二人きりの時の遊びはもっぱらままごとばかりで、舞佳が一番好きな遊びだった。男子の俺にとっては少々気恥ずかしかったが、ままごと遊びをしている時の舞佳が一番楽しそうに笑うからも、せがまれると俺も断れなかったのを覚えている。

『ユウ君はお父さん役で、私はお母さん。子供は、この子たち』

『たくさんいるな。動物のぬいぐるみばっかだけど……』

『ダメ、かな?』

『だって俺たちの子供なんだろ? うさぎや猫が生まれるかな』

『じゃあ……子供作る?』

『子供ってどうやって作るんだ?』

『よく知らないけど、お母さんは、キスをするって言ってた』

『えっ』

 ……そういや、そんな会話をした記憶もある。

 当時は二人ともなにも知らない年頃だったが、キスが特別な行いであることくらいは理解していた。しかし幼い頃の俺にとって、互いの唇を重ね合うことは恥ずかしいという感情より、なんだか罰ゲームめいたもののように感じていた。バラエティ番組で芸人同士が嫌々やっているのを見ていた弊害かもしれない。

『キスしないといけないのか? うえー』

『え、ユウ君は嫌なの……?』

『うーん……舞佳はしたいと思う? 俺とキス』

『わ、私は全然、嫌じゃない』

『そうなのか。でも本当に、キスで子供ができるのか? テレビで芸人同士がやってるの見たことあるけど、子供なんてできてなかったし』

『それはその……男の人同士だからじゃないかな。子供は、お母さんが産まないとだから』

『あー、じゃあどっちかは女じゃないといけないんだ。でも、キスかぁ』

『やっぱり、嫌……?』

 舞佳の瞳が徐々に潤み始めていた。これ以上渋るのはまずいと思った俺は、彼女の笑顔を見たいがために嘘をついた。

『……まあ、子供がうさぎや猫になるよりはマシかな』

『じゃ、じゃあっ……』

『うん、キスしよう。やったことないけど、見たことはあるから大丈夫だ』

 何気なく言った俺に対し、舞佳は顔を真っ赤にして笑っていた。恥ずかしいんだか嬉しいんだかよく分からない笑顔だったが、舞佳が楽しそうならなんでもよかった。たったそれだけで、子供の頃の俺は断らなくてよかったと思えていた。

 ただまあ、結局キスはしなかった気がする。やろうとする寸前で舞佳が恥ずかしがって中々できず、そうこうしているうちに藍香さんも遊びに来て、俺たちがやろうとしていることを慌てて止めていた。今となっては俺の方が赤面するような話で、同時に笑い話でもあるが、舞佳との懐かしい思い出の一つと言っていい。舞佳の方は覚えているか分からないが……。

 どういうことをして遊んでいたのか、どんな風に一緒にいたのか。それらは割合簡単に、鮮明に思い返すことができる。

 しかし彼女と交わしたはずの約束の一つが、未だにはっきりと思い出すことができていない。

 それはとても大切で、忘れてはいけないはずの約束だった。


 ――『ユウ君は、大きくなったら、私の――に、なってくれる……?』


 舞佳の声を必死に辿ろうとしても、まるでノイズがかかるように不鮮明となる。

 どこでなにをしていて、どんな過程を経て交わした約束なのか……その時の彼女が、どんな表情を浮かべていたのか。

 結局俺が、舞佳との約束がなんだったのかを思い出す機会はなかった――姉妹の両親が離婚したのち、俺たちが三人揃って遊ぶことはなくなってしまったからだ。

 どうして三人で遊ばなくなったのか、明確な原因は分からない。

 いや、原因らしきものはたくさんあった。どれか一つには絞り切れない、というのが正しいかもしれない。

 姉妹は苗字を違えたのち、当然のことながら住まいも違えた。芦北一家はアパートに住んでいたが、どうやら父親が出ていく形で離婚したらしい。

 そのため、舞佳は隣町へと引っ越してしまった。本来であれば俺と同じ中学に上がるはずだったがそれもなくなってしまった。

 対して、藍香さんはずっと俺と同じ街にいた。歳が四つ離れていたから同じ学校になったことはないが、会って話す機会は少なくなかった。ゆえに藍香さんとの関係は、昔からほとんど変わらずに維持されてきたと言っていい。

 一つだけ、藍香さんに変化があったとすれば――舞佳の話をしなくなったこと。

 昔はなにをするにしても、三人で遊ぼうと言っていたのに……苗字を違えたのを機に、藍香さんは舞佳の話をあまりしなくなっていった。

 ――そうして、大切ななにかが欠落したまま、俺は当たり障りのない中学時代を終えた。

 藍香さんも高校生活を終えて大学生になった。東京にある大学へ通いながら、暇な時には俺のもとを訪れる。そういう間柄に落ち着いていた。

 高校生になった俺は、当然のように地元の高校に進学し――偶然にもそこで、再会を果たすことになった。隣町の中学から進学してきた、舞佳と。

 けれど彼女は、変わってしまっていた。

 見た目も、性格も。

 舞佳は藍香さんにも引けを取らないほどの容姿へと変貌を遂げ、とびきり可愛らしい女子高生になっていた。周囲からも一目置かれるほどの美少女だった。

 しかし不思議と、誰も舞佳に近寄ろうとしなかった。

 それほどまでに彼女は――彼女の瞳は、冷たい眼光を放っていた。目の前にあるすべてを恨めしく思っているような、光のない眼差しを湛えていた。

 誰に対しても距離を取り、見えない壁を作っているような気配。可憐な容姿に反して欠片の愛想もなく、誰に対してもつっけんどんな物言いで接する女子生徒――それが高校で再会した芦北舞佳だった。

 そしてその振る舞いは、幼馴染であるはずの俺に対しても例外ではなかった。

 ――『鏑谷君』

 二年生になって、俺は舞佳と同じクラスになった。

 けれど彼女の顔に、昔のような笑みはなかった。

 舞佳は冷めた表情のまま、初めて知り合ったクラスメイトを相手にするように、俺のことを『鏑谷君』と呼んでいた――。


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