第二話 家出とベッド

13




 ――『こ、こんにちは……ユウ君』

 いつでも気恥ずかしそうな、はにかんだ笑みを浮かべている。

 芦北さんは――いや、舞佳・・はそういう女の子だった。

 上見坂藍香と芦北舞佳は、実の姉妹だ。

 藍香さんが姉で、舞佳が妹。

 元々、二人は同じ芦北姓だったが、四年前に親の都合で苗字を違えることになった。

 藍香さんは母親の藍子さんに引き取られ、上見坂姓に。

 舞佳は父親に引き取られ、苗字は芦北のままだった。

 そうなったのが四年前で、俺が姉妹と初めて会ったのは、更にその二年前。

 当時の俺は事故で母親を亡くしたばかりで、家に帰ることが億劫になっていた。放課後になると近所の公園に立ち寄り、日が暮れるまで独りでブランコに揺られ、けたたましい音を散らしながら通過していく電車の数を数えているような、そんな無為な夕方をよく過ごしていた。悲しみを紛らわせるにはあまりに不器用な手段だったが、それでも家に独りでいるよりはいくらか気が楽だったのだと思う。

 そうして何度目かの夕暮れ――いつものようにブランコの上で俯いていた俺に、中学の制服を着た少女が声をかけてくれた。

『いつ攫われてもおかしくないくらい独りぼっちね。お家の人が心配するんじゃない?』

 初対面とは思えないフランクな調子に面食らった俺は、相手が見も知らない年上の中学生ということもあり、なんと返せばいいのか分からずしばらく戸惑っていた。

 けれど俺からの返答を待つ少女の眼差しには温かみがあり、不思議と嫌な感じはしなかった。新たな下りの電車が走り去ったのち、微かな声が自然と喉の奥から込み上げた。

『……家には、誰もいないから』

『いない?』

『父さんは、仕事で遅いし……母さんはこないだ、死んだから』

 俺のせいで、俺が迷ったせいで――、そう続けようとした唇は小刻みに震え始め、思うように言葉を続けることができなかった。

『……そう』

 少女は短い相槌を打った。当初のフランクさが欠け落ちた掠れ声で、その変化がまた俺を気鬱にさせた。不必要なはずの申し訳なさを覚えた。勝手に話しかけてきたのは向こうだが、それでも自分の言葉のせいで悲しくさせたと思ったのかもしれない。

 考えてみると、この頃は学校の同級生とも似たような感じになって、孤立し始めていた時期だった。悲しい気持ちを打ち明けようとすると空気が淀み、それが分かってしまうからこそ心苦しくなって、結局は自分一人で抱え込むことしかできないでいた。そもそもが自分自身に降りかかった不幸なのだから、自分だけで背負い込むことが正しく、誰かの手を借りることの方が間違いなのだと自分に言い聞かせていた。

 だからこの少女も、その無力な相槌を最後に離れていくだろうと思った。その方が少女のためにもいい、自分は独りぼっちでいることの方が正しい――そんな風に考えていた。

 しかし結果的に、俺は独りぼっちにはならなかった。

 少女はしばらく俺を見下ろしていたが、やがて隣のブランコに腰を下ろすと、穏やかな風に身を任せるように小さく揺れていた。

『なんで、まだいるの?』

 堪りかねた俺が訊ねると、少女は笑みを浮かべた。茜の日差しを反射する瞳がビー玉のように光って見えた。

『家族がいないなら、あたしが家族になってあげるわ』

『え……?』

『その代わり、あたしの願いも聞いてほしいの――約束できる?』

 それが藍香さんとの出会いであり、その願いというのが、彼女の妹である舞佳と友達になってほしいというものだった。これがきっかけで舞佳とも一緒に遊ぶようになり、俺たちは幼馴染という関係になった。

 姉妹と遊ぶ場所は、藍香さんと最初に出会った公園が多かった。線路脇にある小さな公園、頂角が鋭い二等辺三角形のような形状の敷地だったため、近所では正式名称ではなく単純に三角公園と呼ばれていた。遊具は少なかったがすぐ傍を電車が通る景観は人気があり、放課後にはそれなりの子供が遊びに来ていた。春にはブランコの後方に植えられている桜の樹がこぢんまりと咲き、その下で姉妹と一緒に花見をしたこともあった。と言ってもブルーシートを敷いて、ありったけに用意したお菓子やジュースを飲み食いしただけだったが。

 公園以外の遊び場はもっぱら俺の家だった。親父の帰りが遅く基本的に俺しかいない時間が多かったから、藍香さんが居心地のよさを好んでよく遊びに来ていたと思う。

『ちょっと、なにこのヘイシーンってやつ。何回勝っても「もう一回だ」とか言って再戦って、バグってんじゃないの?』

 藍香さんはよく、俺の部屋にある据え置き型のゲームで遊んでいた。

 親父が知り合いから譲ってもらったという古いゲームばかりだったが、藍香さん的にはゲームであればなんでもいいようだった。

『序盤だとそいつ、普通は勝てないくらい強いから。負けてあげないと話が進まないんだよ』

『負けてあげる? ふざけたこと言わないでよ。あたしの辞書に敗北の二文字はないわ』

『そんなこと俺に言われても……負けないと、次に進めないから仕方ないよ』

『ちぇ、ふざけたゲームね』

 藍香さんは気の強い性格で、思ったことはなんでもはっきりと口にする人だった。言葉の輪郭が常に明瞭で、よく通る声をしていた。

 いつも明るい表情を見せる藍香さんだったが、一度だけ、彼女の涙を見たことがある。

 姉妹の両親が離婚することを知る、幾日か前。


 ――『ユウ、約束よ。目の前にいる誰かが頼ってきたら、ちゃんと助けてあげて。お願いを聞いてあげて』

 

 その日の藍香さんは一人で俺の家に遊びに来ていた。

 約束というよりは、どこか言い聞かせるような口調だったことをよく覚えている。

『特に、あたしみたいな女の子が頼ってきたら、絶対にね』

 藍香さんはいつも、茶目っ気たっぷりの笑みを俺に向けた。

 俺にとっても姉のような存在だった彼女だが、そんな約束に反して、俺に頼ってくることはあまりなかった。その約束も、一緒に仮面ライダーのテレビゲームをしていた時に言われたもので、彼女にとってどれだけ重要だったかは分からない。なんでもはっきり言う彼女は、冗談なんかもよく言う人だったから。

 ただ、ブラウン管を見つめていた彼女の瞳が、かすかに濡れていたことに俺は気づいていた。

 どうして、涙を堪えているのだろう――そう思ったが、俺はなにも訊かなかった。

『うん。約束なら、必ず守るよ』

 と、頷くだけに留めた。

 藍香さんは『頼もしいわね』と、小さく笑っていた。

 彼女の笑顔や約束について、俺はほとんど障害なく思い出すことができた。彼女の声や表情は常にはっきりしていて、印象的だったからだと思う。


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