12



 異変が生じていることを確信したのは、放課後。

 自室に帰り、電気を点け、部屋の異常を目の当たりにした時だった。

「どういうことだ……?」

 部屋の隅に置いていたはずのスーツケースが、なぜかソファの手前まで移動している。しかも中が開かれ、衣服やタオル、女性ものの下着が露わになっている。黒のブラジャーなんかは思わず凝視してしまうほどのデカさだった。つまりこれがGカップなわけか……。

 いや、そんなものに目を奪われている場合じゃない。

 今朝は確かに鍵をかけて部屋を出た。ドアや窓をこじ開けられた形跡もないし、泥棒が入ってきてスーツケースを漁ったなんて可能性は薄い。そもそもここに寮母室があることを知っている人間は限られているわけだし。

 となれば、部屋に侵入してスーツケースを漁れる人間は自ずと絞られるが、当の本人は一体どこに……。

 不思議に思っていたその時、――ガチャリと、背後で扉が開く音がした。

「あ、ユウ。おかえりー」

 振り返ると、ユニットバスの中から藍香さんが出てきていた――体にバスタオルを巻きつけただけの姿で。

「今日は結構早かったのね。あ、そこにある下着取ってくれない? ユウが好きなの選んでいいから」

「ああ、じゃあこの黒くてデカいやつで……って違う! なにやってんだよ人の部屋で!」

「そっかー、やっぱ黒いの好きなんだね男の子って。あたしは暖色系が好きなんだけど、もちっと黒も増やした方がいい? そっかそっか、なーるー」

「知らねえよ! ていうか勝手に納得して俺が望んでるみたいに雰囲気にするな!」

「でも、ユウは黒が好みなんでしょ?」

「それは一番上に置いてあったから目立ってたってだけで……いや、だから違うだろ! なにやってんだって聞いてんだよ人の部屋で!」

 焦りと困惑で思考が堂々巡りしてしまう。目の前に立つあられもない肢体のせいで視点が定まらない。

 対して藍香さんの方は呑気なもので、

「んー? シャワー借りてたのよ。見れば分かるでしょ」

 などと宣いながら丁寧に髪を拭いている。俺が目の前にいることなど意にも介していない様子で。

 藍香さんがこの部屋に来ることは割と頻繫にあったが、勝手にシャワーを浴びていたことなど今までなかった。体に巻かれたバスタオルは豊満な胸元からほっそりした膝元まできっちり覆っているものの、少しでも激しく動こうものなら簡単に剥がれ落ちてしまいそうな危うさがある。この状況で冷静でいられるならば俺はもはや男ではない。

「とにかく早く着替えてくれ。ついでに照れとか羞恥心辺りの感情も育んでくれ」

「別にあたしは、ユウに見られたってなんともないけど……え、もしかして」

 にやーっと、藍香さんの目元が悪戯っぽい弧を描く。

「ユウは照れてくれてるの? お風呂上りのあたしを見てドキっとしちゃってる感じなの?」

「い、いや、そういう話ではなく」

「ふーん。じゃあどういう話なのかなぁ。あたし分かんないなぁ」

 とぼけたように言いながら瞬く間に距離を詰めてくる。

 俺は逃げるように背を向けたが、この狭い部屋で逃げ場などあるはずもなく、

「ていっ」

 と、呆気なく藍香さんの腕に捕まった。背中に抱き着かれる形で。

「ちょ、なにを……」

「ほらほら言ってみなさいよぉ。ユウはどうしてそんなに慌ててるわけー? なんでそんなに顔を赤くしちゃってるのかなー?」

 わざと俺の耳元で言いながら、ぎゅーっと抱擁を強めてくる。

 風呂上がりのせいか、背中を包む体温がやけに熱く、石鹸のいい匂いがふんわりと漂ってくる。背中に当たる柔らかい感触もいつもより生々しい……こちらまで湯船に浸かったあとのような、くらくらする感じを覚える。

「なんでわざわざ、俺の部屋でシャワー浴びてんだよ。アパートまで帰って浴びればいいだろ」

 なんとか気を落ち着け、平常心の説得を試みる。

 藍香さんは「簡単な話よ」と即答し、

「あたし今晩、ここに泊まろうと思って来たから」

「はあっ?」

 俺の平常心は五秒と持たなかった。

「ダメに決まってるだろそんなの! なに寝惚けたこと言って――」

「昨日、ユウが言ってくれたじゃん。あたしのお願い、聞いてくれるって」

 耳朶を打つ声が、囁くような音色に変わった。

「お願い、ユウ。少しの間だけ、ここに泊めて……あたしと、一緒にいて」

 俺の体を抱く腕の力が、強引なものではなくなる。

 押さえつけるのではない、まるで縋りついているような、そんな気配……加えて、彼女らしからぬ真剣な声音。

 一体どうしたというのか――戸惑いで声も出せずにいた時、コンコンと、玄関の外からノックされる音が聞こえてきた。

「やばっ!」

 藍香さんは慌てたように俺から離れ、半ば無理やりにスーツケースを畳んでソファの裏に避難させる。

 それから無駄に迅速な動きで、部屋の隅にあるウォークインクローゼットの中へと隠れていた。急な来客があると彼女はいつもあそこに隠れており、今回も実に手慣れた動作だった。

「にしても……」

 こんな時間に誰が来たのか。最もありえるのは真幸さんだが、それならばノックと共に声をかけてくるはずだが……。

 不思議に思いつつ玄関へ近づき、ドアスコープで外の様子を確認してみる。

 ――そして、目を疑った。

 ドアの外で面映ゆげに佇んでいる、一人の女子生徒を目にして。

 なんで、彼女がここに――俺はすぐにドアを開け、その女子生徒と目を合わせた。

「……こんにちは」

 やっぱり、見間違いじゃない。

 外に立っていたのは、学級委員の芦北舞佳だった。学校指定のスクールリュックを背負い、両手にはベージュのボストンバッグを持っている。

「芦北さん……? どうしたんだ、こんなところに」

「…………」

 彼女は、すぐには答えてくれなかった。

 その姿には、普段のような冷たさは感じられない。戸惑いがちな瞳で俯き、なにを伝えるべきなのか、どんな言葉を言えば正しいのか、健気に考え込んでいるような気配がある。真面目とも無感情とも違う、どことなくおどおどとした少女のような雰囲気……。

 ――こんな表情の彼女を、俺はよく知っている。

 学校で見せる冷めた眼差しや、獅子手さんといがみ合っている時のような顔ではなく。

 いつもどこか申し訳なさそうに、あるいは自信なさげに目を泳がせている、この表情を。

「あの、鏑谷君」

 真っ黒な両目が、意を決したように俺を捉える。

 そうして彼女は――藍香さんの実の妹で、俺のもう一人の幼馴染でもある芦北舞佳は告げる。

 およそ四年ぶりとなる、俺への頼み事を。

「少しの間、私をこの部屋に泊めてほしいの……姉さんと一緒に」

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