11
思えば、異変の兆候はその日の朝から表れていたのかもしれない。
ホームルーム前の教室。代わり映えのない穏やかな朝だったが、唯一気にかかったことと言えば、隣の席に座っている獅子手さんが机に突っ伏していたことだ。授業中は寝ていることも多い彼女だから珍しい姿ではないが、朝っぱらからこのダウンぶりはあまり見たことがない。
「はぁー、もうマジ無理……」
俺が席に着いたタイミングで、こちらに聞こえるほどの独り言を呟く獅子手さん。腕枕の隙間からちらりと、辛そうに目を瞑っている面持ちが窺い知れる。どことなく話しかけてほしいような気配にも感じられるのは考え過ぎだろうか。
「おはよう、獅子手さん」
とりあえず声をかけてみると、ぎゅっと閉ざされていた目がわずかに開かれる。辛そうなことには変わりないが薄っすら微笑んでいるようにも見える目つきだった。
「おはよーカブちん。もぉ先生来た?」
「まだだけど……具合悪いのか?」
「んー、ちょっとねー。もぉ、マジ無理。無理過ぎて無理」
新手のトートロジーだった。なにがどう無理なのかは分からないがとにかく今は無理らしい。
「あんまりきついなら早退した方がいいんじゃないか? 今日は二限目、体育もあるわけだし」
「んー、早退まではちょっとねー。てかあたし、体育だけは割と好きな教科だし」
「そうか……じゃあ、一限目だけ保健室で休むとか? もし行くなら俺が――」
先生に言っておくぞ、と続けようとした瞬間、獅子手さんがパッと俺の手を握ってきた。
「マジ? 保健室、カブちんが連れてってくれるん?」
「え? いや、そうじゃなくて」
「いやー助かるわマジ。一人じゃ歩くのも辛かったくらいだしさぁ。カブちんが一緒ならマジ安心っていうか」
先ほどまでの気怠さはどこへやら、爛々とした眼差しが俺を捉えている。
同時に、獅子手さんの思惑にも気づかされる――彼女は具合が悪かったわけではなく、ただ俺に心配させ、保健室に連れていかせるために辛いふりをしてみせたのだ。
理由は恐らく、一限目の英IIをサボるためだろう。昨日当てられるはずだった獅子手さんは先生の気まぐれで今日に持ち越され、せっかくの予習も無意味になった。二日連続で朝から予習などしたくないから、なんとか合法的に保健室へ逃げ込む算段を考えた結果がこの仮病なわけだ。自分一人の判断で行くより真実味が増すとでも考えたのだろう。
いずれにせよ、保健室に連れていくのは俺じゃなく保健委員の役目だ。サボりの片棒を担がされると分かっているのなら尚更引き受けるわけにはいかない。
……が、女子の保健委員はそもそも獅子手さん自身である。となれば男子の方に、と言いたいところだが、確か男子の保健委員は早稲田だったはず。引き受けてくれる可能性は限りなく皆無。
「そういうことなら早く行こーカブちん。先生が来る前の方が都合いいっしょ」
「あ――」
俺の手を握ったまま獅子手さんが腰を上げる。その顔色はもはや健康過ぎるほどの血色で、むしろ俺の方がどうしたものかと顔を引きつらせている。これではどちらが連れていかれているのか分かったものではない。
――簡単な話じゃないか。こんなの、断ってしまえばいい。獅子手さんの手を振りほどいて、俺は行かないって、行くなら自分一人で行けばいいって、そう突っぱねるだけでいいはずだ。
けど、俺にはできない――彼女の手を振りほどくことも、彼女からの願いを突っぱねることも。断ることが、できない。
それはやっぱり、藍香さんとの約束があるからだろうか……目の前にいる誰かが頼ってきたら、助けてあげること。願いを聞いてあげること。それを獅子手さん相手にも、いけないと分かっているような願いに対しても適用させようとしているだけなのだろうか。どうして俺は、そんな無差別な律儀さを抱えたままでいるのだろうか。
――『嫌だよ。私だけ、離れちゃうなんて……』
不意に、誰かの声が脳裏に木霊する。
ああ、またこの声だ――幼い声。たくさんの涙を孕んだ声。いつか、遠い昔に聞いたはずの、誰かの泣き声。
願い事を拒もうとすると、この声が俺の体を縛りつける。助けてあげなければいけない、叶えてあげなければいけないと考えてしまう――まるで呪いのように。
結局俺は、獅子手さんの手を振りほどくことができなかった。あまりに情けない姿で自分でも嫌になるが、そうすることで頭の中に響く声が消えてくれる。それだけで従順になるだけの価値はあるのだった。
けれど半ば強引な連行は、教室のドアを抜けた辺りで終わりを迎えることとなる。
「――なにをしているの?」
冷淡な声が俺と獅子手さんの前に立ち塞がる。
見ると、不機嫌そうな表情で立つ芦北さんの姿があった。今まさに登校してきたらしい。学級委員で真面目な彼女にしては珍しく遅い時間だ。
「獅子手さん、どこへ行こうとしているの? 鏑谷君まで一緒に」
「チッ……保健室だよ。具合悪いからカブちんに連れてってもらってんの」
「そういう風にはまったく見えないけれど。むしろ鏑谷君の方が……拉致されているように見えるわ」
拉致とまで言うか。あながち間違いでもないかもしれんが。
「別に、あんたには関係ないっしょ。そこどけよ」
「もうホームルームが始まる時間よ。早く席に着いた方がいいわ」
「なんであんたに指図されなきゃいけないわけ? 先生にでもなったつもり?」
「違うわ。私は、学級委員だから」
互いに静かな火花を散らせる二人。
その間でなにも言えずにいた俺だったが、ふと廊下の先から担任がやってきていることに気づいた。すでに俺たちの姿も視界に入れている様子だ。
「獅子手さん、もう先生も来てるけど」
「……ッ。あー、もういいや」
興が醒めたかもう仮病も通じないと踏んだか、獅子手さんは俺の手を離して席へと戻っていった。サボりの片棒を担がされる事態はなんとか回避できたらしい。
安堵して俺も戻ろうとした時、ふとジャケットの後ろ裾を引っ張られる。
「待って、鏑谷君」
振り返ると、なんと芦北さんが俺を引き留めようとしていた。けれど俺の目を見ておらず、なにか思い詰めた顔で俯いている。
「えっと、どうかしたのか?」
「いえ、その……」
くぐもった声で、なにを伝えたいのかよく分からない。
そうこうしているうちに担任が追いついてきて、
「どうしたんだ二人とも?」
などと訊いてくるも、こっちが訊きたいくらいだから俺は答えられない。
芦北さんも結局俺にはなにも言わず、
「すみません。なんでもありません」
義務的に答えると、足早に俺の横を通り過ぎていった。
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