10

 俺が十歳の頃、母さんは事故でこの世を去った。車で実家に帰っている途中、山道を走行中に崖から転落したのだという。

 母さんが実家に帰ろうとしていたのは、親父との関係が上手くいっていなかったからだった。取り分け喧嘩が多かったわけではないが、普段から会話らしい会話がほとんどなく、幼い俺にも分かるほど冷え切った仲だった。寡黙で仕事一筋だった親父はいつも帰宅が遅く、一人で俺を寝かしつける母さんの顔にはいつも鬱々とした影が差していた。

 事故で亡くなる少し前、母さんはぽつりと、俺に訊ねてきたことがあった。

 ――『もし、私がこの家からいなくなる日が来たら、優真はお母さんについてきてくれる?』

 母さんが家からいなくなる日。その意味を正しく読み取れるほど、当時の俺は大人ではなかっただろう。それでも、母さんが親父と離れたがっていることだけは理解していた。

 だからこそ、簡単に答えることはできなかった――たとえ頷いても、あるいはそうしなくても、どちらかと離ればなれになってしまうことには変わりないと考えたから。

 俺が答えあぐねた時、母さんは静かに泣いていた。母さんの涙を見たのはこの時が最初であり、最後にもなった。

 母さんが亡くなって二年後、親父は地方への転勤が決まった。親父は俺を連れて行かずこの街に残し、寮のある中学に入学させた。

 母さんとの記憶を清算し、息子の俺からも離れることができる。親父にとっていい機会だったのだろう。だから地方への転勤を受け入れ、あの家を手放したのだ。

「ユウのお父さんって、今は名古屋だったかしら?」

「いや、博多だよ。その前が熊本で、名古屋は二つ前のとこ」

「こっちには一度も帰ってきてないのよね? 少しは恋しくなったりしないのかしら」

「さあな。親父は仕事が一番大事って考えてるタイプの人だろうし。俺にもよく分からねえよ」

「そう……まあ、ユウの方は寂しくないわよね。なんたってあたしが毎日のようにお世話してあげてるんだから」

 にかっと歯を見せて笑う藍香さん。見ているこちらが照れくさくなるほどの笑みで、積もり始めていた心の澱がふっと払われたような安心感を覚える。

「どっちかって言うと、俺の方が世話してやってるような気がするけどな」

「あら、ユウもジョークが上手になったのね。面白くはないけど」

「ジョークじゃなくて本音だからな」

 むむぅ、と藍香さんが微妙そうな笑みを浮かべる。つられて俺も口元が綻んだ。

 藍香さんはいつも、こんな風に俺と一緒にいてくれた。一緒にいて、たわいない話をして俺を笑わせてくれた。

 あの時もそうだ……母さんが亡くなって、悲しくなって、公園に独りでいた時。

 藍香さんが声をかけてくれて、俺は独りぼっちではなくなった――それが彼女との出会いだった。

「ん、ごちそうさま」

 ミニテーブルの上に空になったカップ麺の容器が置かれる。

 これでようやく帰るのかと思いきや、藍香さんはまたごろりとソファに寝そべっていた。

「はー、お腹いっぱいになったら眠くなってきちゃったわねー。やっぱり今日は泊まらないとダメかもぉ……」

「話が違うぞ。ラーメン食ったら帰る約束だっただろうが」

 語気を強めて言うと、さすがの藍香さんも「冗談よ」と笑って立ち上がり、

「お母さんにも今日は帰るって言っちゃったし。ちゃんと考え直してくれてればいいんだけど」

「考え直す? ……もしかして、また藍子あいこさんと喧嘩でもしたのか?」

「ま、そんなとこよ。最近はめっちゃ犬猿」

 それであのスーツケースか、と合点がいく。言わば友達の家に泊まろうとしたのはプチ家出のつもりだったわけだ。

 藍香さんは昔から、母親である藍子さんとの折り合いがよくない。と言っても愚痴を聞く限りでは喧嘩するほど仲がいい程度の話だったりもするが、今回はちょっと度合いが違うのかもしれない。

「大丈夫なのか? そんな状態で帰って、また喧嘩が酷くなるんじゃ」

「さあね。今回のは、少し長引くかも」

 玄関へと向かい、パンプスを履き始める藍香さん。

 俺はまだ不安な心持ちだったが、あまり余計なことは言わないことにした。

「スーツケースだけど、なるべく早くアパートまで持っていくよ。できれば明日の放課後にでも……」

「ねえ、ユウ」

 遮るように言って、藍香さんは振り返る。

「ユウはまだ、あたしとの約束、守ってくれてるのよね?」

「え……?」

 彼女からの問いかけで、俺の脳裏に幼い日の光景が甦る。


 ――『目の前にいる誰かが頼ってきたら、ちゃんと助けてあげて。お願いを聞いてあげて』


「もしも、あたしがユウに頼ったら……助けてくれるのよね? お願い、聞いてくれるのよね?」

 いつになく真剣な表情だった。

 俺は微かな頬の熱を覚えながらも、はっきりと頷く。

「藍香さんのお願いなら、絶対聞くよ。約束したんだから」

「…………」

 藍香さんはしばらく俺を見つめていたが、やがて「そっか」と嬉しそうに破顔し、

「じゃ、また明日ね」

 それだけ言い残すと、静かに玄関から出ていった。

 この時は、藍香さんの言動について特別なことは思わなかった。彼女特有の気まぐれというか、なんとなく確かめたに過ぎないのだろう、としか考えていなかった。

 ――けれど、彼女の言った『明日』に、あんなことが起きるなんて。

 この時は、想像もしていなかった。



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