9
お湯を入れて三分。できあがったカップラーメンをミニテーブルの上に置く。
刹那、藍香さんは無様な屍のようだった体をゆらりと起こし、命からがら生還した遭難者の如く慌てた箸遣いでラーメンをすすり始めた。よほど腹が減っていたらしい。
「はーっ、生き返るわねー」
満足げに頬を綻ばせる藍香さん。大袈裟なほど幸せそうな表情に俺も思わず苦笑する。過程はどうあれ、ここまで喜んでもらえるのなら作った甲斐があったと思えるから不思議だ。
「夜に食べるラーメンって格別に美味しく思えてくるわよねー。あ、飲み物はとりあえず生で」
「居酒屋に行ってくれ」
「瓶じゃなくて缶でもいいわよ?」
「どっちも置いてないから。高校の男子寮だぞ? 未成年ばかりしかいなんだよ」
「失礼ね。あたしだってまだギリ未成年よ」
「余計ダメじゃねえか。胸張って言うことじゃねえだろ」
「別に張ってないわよ。そんなことしなくてもあたしGカップだし」
「マジで? ……ってなんの話だよ。巧妙に話を逸らそうとするな」
「ちぇっ、胸で買収作戦は失敗ね」
つまらなそうに舌打ちされる。なんだその一見いかがわしい作戦名は。
しかし藍香さん、大きいとは思っていたけどまさかGとは。そんなのグラビアモデルくらいしかありえないと思っていた。さっきちらっと見てしまったけど、確かに立派な谷間だった気が……いやいや、なにを思い返しているんだ俺は。早稲田の言葉を思い出そう。邪念を振り払うんだ邪念を……。
「ちょっとユウ、なに神妙な顔で『邪念邪念』って呟いてるのよ。ジャネンバの物真似だとしたら全然似てないわよ」
「そんなピンポイントな物真似できるかよ」
ていうか久々に聞いたぞジャネンバ。もはやどんな声だったかも思い出せん。
「にしてもここ、結構いい部屋よね。そこそこ広いのに一人部屋だし、キッチンやトイレ、お風呂まであるんでしょ? 普通のアパートとほぼ変わらないじゃない」
ふと、部屋の中を見回しながら羨ましそうに言う藍香さん。
確かにここは、ほかの寮生が使っている部屋よりもかなり優遇されている。普通の寮生の部屋は水回りの設備が室内になく、共同の場所を使う必要がある。が、この部屋には小さいながらもキッチンがあり、トイレと風呂場が一緒になったユニットバスも設置されている。寮の中で最も充実した設備の部屋だ。
「元々、この部屋は寮母さんが生活するための部屋だからな。共同スペースを使うわけにはいかないから、室内に一通り用意してあるんだよ」
なぜ俺が普通の寮室ではなくこの部屋になったか。その発端は学校側の事務的な不手際だった。
俺がこの男子寮に入ることが決まったあと、なんの手違いか、定員オーバーしていることに学校側が気づいていなかったのだ。しかし寮母の真幸さんが寮の近所にある実家から通勤している人で、この寮母室が使われていない状況だったため急遽俺の部屋としてあてがわれたわけだ。
「不幸中の幸いよね。定員オーバーでどうなるかと思いきや、まさかこんないい部屋になるなんて」
「俺は別に、部屋はどこでもよかったんだが……とりあえず安心はしたかな。寮がダメとなると、どこかアパートの部屋でも借りなきゃならなくなるところだったから」
「前に住んでた家はすぐ近くなのにね。どうしてあの家、手放しちゃったわけ?」
「それは、親父が決めたことだから……」
曖昧に答えたが、本当は薄っすら気づいていた。親父がなぜ、あの家を手放したのか。
――あそこには、亡くなった母さんの記憶が、たくさん残っているせいだ。
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