一時間ほど夕食作りを手伝い、十八時を過ぎた頃になると、帰ってきた寮生がぽつぽつと食堂に現れ始めていた。この時間はまだ食堂が空いているため先に俺も夕食を済ませておく。ピークはサッカー部や野球部辺りの寮生が帰ってくる十九時から二十時の間で、その際の配膳作業まで手伝う。それが俺の日課だった。

 ピークも過ぎて再び食堂も閑散としてきた頃、真幸さんが「お疲れ様」と声をかけてくる。彼女の手には薄い茶封筒があった。

「これ、先月の分ね。忘れないうちに渡しておかなきゃと思って」

「あ、ありがとうございます……すみません、いつもこんな、バイト代みたいなものももらってしまって」

 受け取りながら申し訳なさそうに言うと、真幸さんは「これくらい当たり前よ」と頬に手を当て、

「いつもこんな遅くまで手伝ってもらってるんだから。優真君の働きぶりなら、本当はもっと多く払いたいくらいなんだから」

「いえ、そんなもらっても使い道ないですし……」

 入寮以来、俺はずっと真幸さんの仕事を手伝っている。

 最初はほんの些細なことで頼られただけだったが、気づけば放課後や休日などはほとんど彼女の手伝いをするようになっていた。

 するといつの間にか、真幸さんはお礼だと言ってちょっとした賃金まで払うようになっていた。

 俺も初めは遠慮したが、申し訳なさそうにする真幸さんに押し切られ、月に一度はバイト代として受け取るようにしている。そうすることでなにか、自分自身の行いが決して無償の善行めいたものではないと思いたいのかもしれない。

「優真君、休みの日にも色々と手伝ってくれるものね。それじゃあお金も、あんまり使うことないわよね」

「今のところはそうですね……貯めてるだけになってます。趣味とかもあんまりないので」

「うら若き高校生がそんなことじゃダメでしょう? ちゃんとお友達や彼女さんと遊んだりしなきゃ」

「うら若きって、なんかちょっと古いですよ。それに友達はみんな部活で忙しいですし、彼女なんか……」

 謙遜ではない悲しい事実を打ち明けようとした時、ポケットの中でスマホが振動した。


【藍香:おそーい。おそすぎるー】


 画面に表示されているラインのメッセージ。藍香さんからだ。

 遅い? 一体なんのことだ……と思っていると、再びスマホが振動。


【藍香:まだ帰ってこないのー?】


 続けざまに送られてきたメッセージで、ある予感が駆け抜ける――まさか、あの人……。

「すいません、ママさん。今日はもう部屋に戻ります」

「え? そうね、もうやってもらうこともないけど……なにかあったの?」

「い、いえ、大したことじゃないですけど、野暮用を思い出して。失礼しますっ」

 不思議そうな顔の真幸さんを後目に俺は厨房を飛び出した。静けさを取り戻した食堂も足早に通り過ぎ、短い廊下を抜けて自分の部屋へと向かう。

 鍵を開けて中へ入ると――予感通り、藍香さんの姿があった。先ほど外で別れた時の格好のままソファに寝そべり、気怠そうな面持ちでテレビゲームに興じている。

「ちょっとユウ、随分遅かったじゃない。寮の手伝いってこんな遅くまでやってるわけ? ただの手伝いにしてはちょっとおかしいんじゃないの?」

「おかしいのはどっちだよ。なんでここにいるんだ。帰ったんじゃなかったのか?」

「フェイクよフェイク。ユウの気を緩ませておいて現行犯のところを取り押さえようって思ったの」

「現行犯?」

「そうよ。なのにスーツケースは全然漁られた形跡ないし、ユウも全然帰ってこないし。ちっとも面白くない」

 ちっとも理解できない不満だった。どこまで本気で言っているのかマジで分からない。

 当然のことだが、寮の部屋に異性を入れてはいけない決まりになっている。ここで言う異性とはもちろん校外の人間も含まれるのだが、藍香さんはたまに裏口を利用してこの部屋に忍び込んでくる。鍵はいつの間にか俺の部屋から盗んだスペアキーを使っているらしい。これで一度も見つかっていないと豪語するのだからもはや現代のくノ一だ。

「もう、なにこのヘイシーンとかいう奴! 何回勝っても『もう一回だ!』とか言って再戦って、ずるくない?」

 ソファの傍に立つ俺を見上げ、ゲームに対する不満をぶつけてくる。

 その際、襟元の緩いカットソーの隙間から嫋やかな胸元が覗く。ブラジャーっぽい布地までばっちり見えてしまっている。あまりに無防備な体勢だった。無意識に視線が向いてしまう本能が憎い……。

「序盤だとそいつ、何回倒しても再戦になるから。負けてやらないと先に進めないんだよ」

「そうなの?」

「そうだよ。ていうかこれ、昔も説明した気がするんだが」

「そんなことよりあたし、すっごいお腹空いてるんだけど」

 急激な話題転換。こちらを見上げる眼差しがいつの間にか空腹に苛立つ子犬のようになっている。

「腹が減ったんなら帰ればよかっただろ。わざわざ俺なんか待ってなくても」

「そんなのダメよ。今日はユウと一緒にご飯でも食べながら夜通し語らいたい気分だったの。それくらい察しなさいよ」

「無理に決まってんだろ。ていうか夜通しって、まさか泊まるつもりだったのか?」

「それもいいわね。準備も万端なわけだし」

「いいわけねえだろ。異性の宿泊なんて考えうる最悪の規則違反だぞ」

「細かいわねえ。そもそも男子寮に無許可で上がり込んでる時点で規則違反なんだから、一日泊まったところで大差ないと思わない?」

「そう思うんならまず無許可で上がり込むなよ……」

「とーにーかーく、お腹が空いて動けないのー。これじゃ帰りたくてもかーえーれーなーいー」

 足をぱたぱたさせて訴える藍香さん。まるで駄々をこねる子供のようだった。

 黙っていれば紛うことなき美人女子大生なのに、こういう奔放な本性は昔から全然変わっていない。

 まあ、変に気取らないところが彼女のいいところでもあるわけだが。

「もう、分かったから。カップラーメンでいいなら今すぐ作ってやるよ。それ食べたら帰宅できるだけのエネルギーにはなるよな?」

「むー、なんでもいいから早く作ってー。めっちゃお腹空いてマジでべりーはんぐりーだからー」

「意味一緒だろそれ」

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