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その後、細かく話を聞いたところ、藍香さんがわざわざ俺を呼びつけたのは荷物持ちのためだと分かった。キャスターが使い物にならなくなったスーツケースをアパートまで運んでほしいのだという。
藍香さんの住むアパートまでは駅から徒歩で十五分ほどだが、一週間分の宿泊セットが詰め込まれたケースを抱えて歩くには辛い距離だろう。しかし今からアパートまで行っていては寮の手伝いに間に合わないため、ケースそのものを一旦俺が預かり、また明日の放課後にアパートまで届ける手筈で合意した。
「あ、スーツケースにはあたしの下着とか入ってるけど、あんまり汚さないでよね」
「どういう経緯になったら汚すようなことになるのか知らんが、そもそも俺がスーツケースを開ける前提で話をしないでくれ」
「でも、思春期って色々大変なんでしょう? あたしだってその、ちゃんと理解してあげてるんだから」
「わざとらしく顔を赤らめるな。ついでに頭ぽんぽんもやめてくれ」
道中はそんな会話もあり、未だに俺が子供扱いされているのがよく分かった。まあ藍香さんとは三つも離れているし、初めて出会った時なんか俺はまだ小学生で、彼女はすでに中学生だった。背丈を追い越されても俺が弟のような存在であることには変わらないのだろう。
藍香さんとは寮から少し離れたところで別れた。赤見ヶ峰第一高校の男子寮――
一階には食堂や寮母室があり、二階から上が寮生の部屋になっている。定員は四十名とあまり多くなく、寮生のほとんどが遠方出身の部活動生だ。そのため夕食が出るのは部活が終わる頃、遅い時間帯になることが多い。
普通ならば玄関を通って入るが、今日は藍香さんから預かったスーツケースを持っている。運び込んだところで別に規則違反でもないが、誰かに見つかってわけを話すような事態になるのは面倒だから避けたい。
そういうひっそり忍び込みたい時に有用なのが、正面玄関とはまったく正反対にある非常用の裏口だ。そこから入るとすぐ目の前に寮母室があるのだが、現在は寮母のためには使われておらず――四十一人目の寮生である俺の部屋、『〇二一号室』となっている。
「なんとか間に合いそうだな……」
独りごちながら部屋の中にスーツケースを運び込み、自分の荷物も片してから着替えを始める。と言っても制服のジャケットを脱ぎ、その上からビブエプロンをかけるだけ。五分とかからなかった。
部屋の鍵をしっかりかけ、早歩きで食堂へ向かう。照明こそ点いているもののまだ人影はなく閑散としている。これが夜になると部活から帰ってきた寮生でごった返す。今はまさしく嵐の前の静けさだ。
厨房に入ると、一つ結びで括った亜麻色の髪を揺らしながら作業をする女性の姿を見つけた。向こうも俺が来たことに気づいたか緩やかに振り返り、柔らかな弧を描く垂れ目の微笑みを向けてくる。
「あら、優真君。おかえりなさい」
――
「ただいまです、ママさん」
俺も簡単に挨拶を済ませ、水道でまず手洗いから始める。
『ママさん』というのは彼女の愛称で、恐らくは『ややままゆき』という名前の真ん中二文字や、寮母という職柄に由来しているのだと思う。寮生の中にはふざけているのかマジなのか普通に『ママ』と呼ぶ輩もいるが、真幸さんの方は特に気にしていないらしく、むしろ愛称で呼ばれることを喜んでいる節がある。だから俺も少し恥ずかしいが『ママさん』と呼ぶように心がけている。
「ちょうどよかったわ優真君。今からみんなの夕食を作り始めようと思ってて」
困ったように微笑む真幸さん。
いつも手伝っていることでも、それが当たり前のような顔を彼女はしない。真幸さんの生真面目さが感じられる部分だ。
「はい、分かっています。それを手伝うために来たんですから」
「いつもありがとうね。帰ってきたばかりなのに」
「大丈夫ですよ。ほかにやることもないですし……」
厳密には藍香さんからのお願いもあったが、あっちは急を要することでもない。上手く時間を使えばどちらも叶えてやれることだ。
「私は凄く助かってるけど、たまには自分のために時間を使ってもいいのよ? 優真君、ほとんど毎日手伝ってくれてるわけだし」
「いえ、ママさんがいつも一人で大変なことは分かっていますから。役に立てるなら俺も嬉しいですし」
優等生めいた言葉がすらすらと出てきてしまう――役に立ちたいなんてそんなたいそうな理由じゃない。
ただの自己満足、いや、そういう分かりやすい名前さえついていない感情のせいだ。
「もう。本当にいい子なんだから、優真君は」
嬉しそうな声を最後に、真幸さんも作業に集中し始めていた。俺も入念な手洗いを終え、冷蔵庫に貼られている献立を確認する。今日のメインディッシュはデミグラスハンバーグ。寮生全員分のハンバーグをこねる作業はかなりの手間だが、冷蔵庫の中を見る限り、タネ作りについては昼間のうちに真幸さんが終わらせているみたいだった。焼く作業はもう少しあとでいいだろうから、とりあえずは副菜の準備に取りかかろう。
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