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――今回もまた、俺は断ることができないのだろう。
全部訳してやるなんて獅子手さんのためにならない、体調が悪いというのも体のいい嘘だ……そう理解していながらも、結局は彼女の笑みに絆される形で承諾してしまう。
半ば諦観めいた境地で頷きかけた、その時だった。
「――待って、鏑谷君」
そんな風に呼びかけてくる声もまた、予想もしていなかった方向からの救いの手。
顔を上げると、氷のように冷たい双眸を持った少女が俺たちを見下ろしていた。
――
このクラスの学級委員で、獅子手さんに負けず劣らず目立つ少女の一人。
艶のある長い髪や校則通りの制服姿などは、派手な容姿の獅子手さんとはあらゆる面で対照的だ。上背についても獅子手さんとそう変わらないほどで、常にきちんとした姿勢でいるからかスタイルの良さでも負けていないように感じられる。
これだけでも一目置かれるには充分な要素だが、芦北さんが獅子手さんと対極的なのは容姿だけではなく、人柄やクラスでの立ち位置にもよく表れている。
「代わりに全部やってあげる必要なんてないわ。獅子手さんのためにもならない」
鈍色の眼差しを湛えたまま、険のある声で注意してくる芦北さん。
すぐさま獅子手さんが「はあ?」と声を飛ばして立ち上がり、
「芦北には関係ないじゃん。つか盗み聞きしてたわけ? 趣味悪っ」
「たまたま聞こえたの。人聞きの悪いこと言わないで」
「いや、あんたにとやかく言われる筋合いないから。それともなに? とうとうぼっちが寂しくなって構ってほしくなったとか? だとしたらマジ笑えるんだけど」
嫌味たっぷりの笑みが小さく響く。
対して芦北さんは落ち着いたもので、先ほどまでの冷然とした目つきを崩すことはなかった。
「学級委員として見過ごせなかっただけよ。それに獅子手さん、今日はきついって言っていた割に随分余裕のある顔のように見えるけど?」
「……ッ」
「本当に辛いのだったら保健室で休んできてもらっていいのよ? あなたが教室にいない方が、私としても無駄に気を張らずに済むから」
こちらもこちらで、実に嫌味な返答。
獅子手さんは歯がゆそうに押し黙ったのち、渋々といった顔で席に着いていた。時間的にももうすぐ担任がやってくるから、これ以上は分が悪いと踏んだのかもしれない。
二年A組になってまだ二週間だが、この二人の険悪さはもはや決定的なものだった。周囲も『またあの二人か』という感じの視線を向けるだけで、特段気に留めるような生徒はもういない。
鷺沼は獅子手さんのことを女王と言っていたが、ならば芦北さんは氷の女王とでも言えるかもしれない――獅子手さんと違って極めて品行方正だが、誰とも群れることがなくいつも独りでいる。そういう部分もまた、獅子手さんと対極的な存在と思われる所以の一つだった。
相変わらずの二人だが、今日は比較的早く収まってくれた方だ。俺も面倒な頼み事を引き受けずに済みそうでよかった……などと密かに安堵していた俺に対しても、「鏑谷君」と鋭い声が降ってきて、
「あまり獅子手さんを甘やかさないでって、何回言ったら分かるの? 勉強は本人がやらなければ意味がないことでしょう?」
「いや、どんな感じで訳すか教えるだけで、答えを教えるつもりはなかったんだけど」
我ながら見え透いた弁明だと思った。
芦北さんも同じように感じたのだろう、先ほどより幾分苛立ちを募らせた顔になり、
「結局は同じことよ。どうせ彼女は自分で考えたりしないんだから。それとさっき、体操服のゼッケンまでやってあげていたでしょう? ああいうことも自分でさせるべきよ、難しいことでもないんだから――少しは、断ることも覚えた方がいいわ」
まくし立てるように言い置くと、翻然と俺の前から去っていった。
――断ることも覚えた方がいい、か。
彼女の言う通りなのだろうが、俺にとってそれは困難なことだ。面倒ばかり引き受けてしまっていることくらい俺だって理解している。
だけど断ることができない――俺はそういう人間だから。
あるいは、そういう人間でなければいけないはずだから。
「チッ……あいつ、マジむかつくんだけど」
獅子手さんの小さな舌打ちが聞こえてくる。
けれど俺が振り向いた時には、普段通りのフラットな表情にすり替えており、
「ごめん、カブちん。訳すとこ、またあとで教えて」
「あ、ああ。分かった」
俺が頷いたのを見て満足したのか、「さんきゅ」と微笑んで自身の腕枕に顔をうずめていた。
――結局また、俺は断ることができなかった。そういうことになるのだろう。
辺りを見回すと、遠巻きに見つめていた鷺沼の呆れ顔が目に映った。その隣で早稲田も難しい面持ちを湛えている。
バツが悪くなって目を逸らしたちょうどその時、ポケットの中でスマホが振動した。取り出してみると、ラインのメッセージが入っていた。
【
頭を抱えたくなった。どうしてこう次から次へと……。
重たい溜め息をついてから顔を上げた時、ふと一番前の列の席に座っている芦北さんがこちらを振り返っていることに気づいた。けれどまもなくホームルームを告げるチャイムが鳴ると、彼女もまた気まずげに視線を外して前を向いていた。
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