第7話 カレーと幼馴染の距離
昼食後、一時間の昼休みを挟んで勉強が始まった。
「沙羅ちゃんは数学を強化する。対策は公式に慣れること。問題をじっくり読んで、どの式を当てはめればいいか判断出来るようにする。分らなかったらすぐ聞いてくれ。覚えていない公式は使いようがない。俺が教えるから、一緒に解答しよう!」
山と積まれたテキストを前に、結翔が熱弁をふるう。
紬は見るからに引き気味で、私も同様だ。
だが、結翔は忙しい時間を割いて、勉強を教えようとしているのだから、期待に応えなくてはならない。
テキストを開き、問題を解き始める。
文章を読んでも出題者の意図が掴めない。
彼等は私達に何を問うているのか。
それが理解出来なければ解きようがない。
私は頭を抱えて考え込む。
「沙羅ちゃん? 分らなかったら聞いてくれ」
結翔の言い方は穏やかで、私を咎める気配すらない。
だが、つい遠慮してしまうのだ。
「……あの……分らなくて……」
「数学は高校生になって、急に難しくなる。中学時代に得意でも躓いてしまうことはよくあるんだ。特に、沙羅ちゃんは忙しい時期と重なってしまった。無理もないんだ。だから、頼れるものは頼ってくれ。俺も助けになりたい」
「……は……い……」
頼れるものは頼る。
私には結翔の援助があるのだ。
なんと頼もしいことか。
「……な?」
「はい! よろしくお願いします!」
よしよしと結翔が頷き、私は再び問題集に取り組む。
勉強時間は四十五分で、間に十五分の休憩を挿み、それを三回繰り返して午後四時となった。
「今日はここまで……明日はスケジュールを変える。お疲れ様!」
一日目のノルマが終わると、次は食事の支度にとりかかる。
「沙羅さんと夕飯の準備をします。結翔さんはお部屋で休んでいてください。お疲れじゃないですか?」
「紬は?」
「私は平気です!」
「わ、私も! 結翔さんは少し休んでください!」
彼は私達に勉強を教える為に、相当な準備をしたことだろう。
夕飯の準備くらいはまかせて欲しい。
「わかった。じゃあ、お言葉に甘えて……」
結翔は一階の客室へと入って行った。
「さて……と……今日はカレーにしましょう!」
「紬ちゃんの特製カレーね? 楽しみ!」
「そんなぁ~大袈裟ですってば……自己流なんです。棚に“こくあま”があったから、それで作ります」
“こくあま”は、市販のカレールーで、名前の通り、子供向けの甘口ルーだ。
私が小学生の頃、母がこれでカレーを作ってくれたが、食べるのは久しぶりで懐かしい。
「まずは、二人で手分けして野菜の皮をむきましょう」
そう言って、紬がじゃが芋を手にする。
「私は玉ねぎを切るから」
「あ、半分はみじん切りに。残りは串切りにしてください」
「わかった」
私は玉ねぎを半分に切ると、根元を残して細い切り身を入れた後、水平に二か所包丁を入れる。
そして、手前からスライスをして、包丁の背を抑えながら、さらに小さく刻んでいった。人参は二人で乱切りにする。
「沙羅さん手際がいいですね」
「紬ちゃんだって……」
目が合い互いに微笑み合う。
「お肉は、到着した時に冷凍庫から出しておきましたから、いい感じに解凍できてます」
「じゃあ、私はサラダを作る」
私はレタスをちぎりながら、紬の手元を見守った。
こだわりのカレーならばレシピを知りたい。
紬は豚肉に玉ねぎ、人参とジャガイモを炒め始める。
鍋は大きめサイズで、小柄な紬が一層小さく見えた。
懸命に料理に励む姿がいじらしく、手を止めてハグしたくなるほどだ。
「水を入れて具材を煮ます……」
ぐつぐつと煮立つ鍋を見守ることしばし。
頃合いを見計らって、紬が具の煮え加減を確認する。
「竹串が通りました……あとはルーを入れて……」
もう出来上がり?
これだけ?
なんだか拍子抜けしてしまった。
……が……。
「これを隠し味に……」
紬が小さな四角い塊を鍋に入れた。
チョコレート!
カレーの隠し味にチョコレートを使う話は聞いたことがある。
これが紬特製カレーなのだろうか。
「あと、これ」
そう言って、生クリームを入れた。
確かに、カレーに生クリームを入れれば、口当たりがまろやかになるだろう。
だが、“こくあま”は子供向けの甘口カレーだ。
チョコレートに生クリーム。
少し甘すぎないだろうか。
「……それと……」
その後、甘さを補うかのように、ウスターソース、醤油、ケチャップを入れ、味見をした後に、一さじの蜂蜜。
紬の動きには無駄も迷いもなく、さながらプロの調理人のようだった。
「出来ました!」
「味見します?」
「うん!」
紬が小皿にとったルーを、息で冷まして舌にのせる。
「どうですか?」
「美味しい!」
想像を超えた味わい。
甘さと辛さが絶妙にマッチしていて、バランスも抜群だった。
カレーの風味は、紬の独特な味付けにより、どこかに消え失せていた。
これは既に、カレーとは別の食べ物だった。
だが、味に不思議な深みがあり、癖になりそうだ。
私は、レシピを知りたかったが、紬は計量をせずに、感覚で味付けをしていたのだ。
教わることも、真似て作ることも、到底出来そうにない。
「紬ちゃんって料理上手なのね」
「ありがとうございます。子供の頃、母の帰りを待ちながら作りました。何回も失敗してしまって……食べられないものを作ったこともありました。でも、そんなときでも結翔さんは、“美味しい”って食べてくれました……」
照れながら紬が笑うと、台所で苦戦する幼い少女が目に浮かんだ。
紬はどれほどの努力をしたことだろう。
結翔はきっと、紬の気持ちを大切にしかったのだ。
その時、私の心にふと疑問が沸いた。
それは常に頭の片隅にあって、時折脳内を過るのだ。
「あの……変なことを聞いちゃうけど、いい? ……その……結翔さんのこと……」
「結翔さんですか?」
紬がお玉を手に首を傾げる。
「うん……結翔さんていい人よね? その……持ったたことない? 恋愛感情……」
不躾だとは思うが、以前から感じていた。
嫉妬ではなく、素朴で純粋な疑問。
二人は仲が良く、所謂、幼馴染という存在だ。
いつも近くにいて、互いの気持ちも理解しているだろう。
そんな二人が恋に落ちたって不思議はない。
「えー!? ない! ないです!」
お玉を振り回しながら、紬がきっぱりと否定をする。
今まで考えたことさえなかったようだ。
「……でも、
「そういうもの?」
「……みたいです」
と、紬が笑った。
仲の良い二人が距離を置いてしまうなんて、人の心は不思議だと思う。
「でも、沙羅さんならぴったりです! 沙羅さんのおかげで結翔さんは本音を言ってくれたし、家にも戻って来ました。私なんて、何にも出来なくて、おろおろするだけだったのに……」
「そ、そんな……紬ちゃんたら……」
紬のキラキラとした視線が眩しく、目を伏せたくなる。
あの時の自分はといえば、世間知らずで、他所の家の問題にづかづかと入り込んでしまったのだ。思い出せば冷汗が出る。
「沙羅さんのおかげです!」
「あ、ありがとう……あはは……結翔さんを呼んでくるから……」
エプロンを外し、結翔の部屋へと向かう。
食欲をそそるカレーの匂いは、空腹の結翔にも届いているだろう。
早く呼びにいかなくては。
結翔が待ちかねているのだから。
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