第5話 出発
八月第三週の月曜日。暑い一日を予感させる午前七時。
軽井沢へ向かう新幹線に乗るために、私は上野駅へと向かう。
衣類などの荷物は宅配便で現地に送付済みだ。送り先は別荘近くに住む管理人宅で、到着後、手元に届けられる手筈となっている。
新幹線のチケットは、直前にキャンセルされたものを結翔が確保した。
乗車時間は一時間ほどで、立ち席でも苦にはならないが、座れることは有難い。
カットソーに七分丈のパンツ。スニーカーにショルダーバッグ。髪は一つにまとめ、三つ編みにした。
ゆとりを持って家を出たはずなのに、電車遅延のせいで到着はぎりぎりになりそうだ。時計を気にしながら、乗り場への階段を駆けるように上る。
ホームは帰省やレジャーの為に、自由席を待つ人でパンクしそうだった。
人混みをかきわけ、乗車口に辿り着くと、結翔と紬の姿が見えた。
「沙羅さん!」
紬が手を振ると、横にいた結翔が私に気付いた。
「沙羅ちゃん!」
結翔もこちらに手を振る。
白いシャツが日差しを弾いて、眩しいほどだった。
「待たせてしまってごめんなさい……」
「大丈夫! 時間通りだろ? 俺達も今来たところだ。それより、早く新幹線に乗るぞ!」
息つく間もなく、車両に乗り込み、指定席を探す。
「沙羅ちゃんと紬が並んで二人掛けの席……三人掛けは確保できなかったんだ、俺はあっちに座る」
結翔は三列ほど後方の通路側の席を指さした。
「……あ、あの……私、一人で平気です……」
おずおずと紬が申し出るも、彼は聞き入れず、私と紬が並んで座ることになった。
「ごめんなさい。結翔さんと沙羅さんを二人にしようと思ったのに……」
「そ、そんな! 気にし過ぎだってば……」
ここまで気を遣われては、かえって緊張してしまう。
第一、紬を知らない人と座らせるわけにはいかない。
結翔だって同じ気持ちだろう。
「そうですね! まだ旅は始まったばかりです! これからチャンスはありますよね!」
気を取り直した紬が、小さな掌をきゅっと握りしめる。
「……チャ、チャンスだなんて……」
ふみゅー!
車内は涼しいはずなのに、汗が出て来た。
あたふたとしながらも、シートに深く座り直す。
ようやく一息つくことが出来たのは、新幹線が東京を離れた頃だった。
「沙羅さん、見てください」
紬がスマホをタップすると、軽井沢旅行の画像が現れた。三人が交互に撮影したのだろう。紬と母親の秋絵、塔ノ森夫妻、紬と塔ノ森氏。一人ずつ、三人揃ったもの。画面には、避暑地を満喫する家族の姿があった。
「去年は、車や自転車を利用して、いろいろ回りました。中軽井沢、白糸の滝、鬼押し出し……楽しかったですよ! 沙羅さんもきっと気に入ります!」
「でも、今回車はないし、勉強しに行くのよ?」
そう。本来の目的を忘れてはならない。
二人の苦手な数学を補強することだ。
“独学には限界があるんだ。コツ掴む必要がある”
結翔は言っていた。
合宿で使う教材は彼に任せきりで、私と紬は参考書や問題集は持参していない。結翔がこれほど手を貸してくれるのだから、しっかり勉強しなくてはと思う。
……でも……。
「大丈夫です。きっと! ここまで来たんですから、観光もできます!」
「そうね! 息抜きをした方が勉強が捗るもの!」
結翔がどんなスケジュールを組んでいるのか、どんな指導をするのか。
気になりつつも、レジャーへの期待は膨らむばかり。
舞花と一緒に買ったワンピースは、先に送った荷物の中に入れた。
あれをどのタイミングに着ようかと考えると、心が浮き立つようだ。
「森の中に教会があって、お伽噺の国みたいでした。カフェでお茶をしましょう。パンが美味しいんです。それから……」
紬は楽しそうに話し続けていたが、急に黙り込んでしまった。
「どうかした?」
「……あ、あの……」
「何?」
「あの……強引だと思います?」
結翔と自分との距離を縮めるという計画の事だろうか。
「……ん……少し……」
「ですよね? でも、見守りたくなるんです。二人の間には、温かい空気が流れていて、見ていてほっとするんです。それぞれの夢を大切にしていて、認め合っている。きらきらしていて眩しいくらい……だから、応援したくなるんです。舞花さんも同じ気持ちです」
「……」
紬の目に私達がそんな風に映るなんて、思いもしないことだった。
「私の身勝手ですよね? ごめんなさい」
すまなさそうに俯く紬。
私がそっと手をとると、それは温かく柔らかだった。
「そんなこと……うれしい……ありがとう」
「沙羅さん……」
私は結翔が好きで、それで十分だと思っていた。
結翔は気持ちを言葉にしないが、それを気にすることはなかった。
もし、私が、あるいは結翔が自分の気持ちを告げあったら、どんな気持ちになるのかと、想像したことさえなかった。
だが、それがこんなにも周りに気を遣わせてしまうなんて。
紬や舞花の援護に戸惑いながらも、味方がいることが心強かった。
“安中榛名、安中榛名”
車内放送が行先を告げ、窓外に緑深き風景が広がる。
「次ですよ! 降りる準備をしましょう!」
私はバッグを肩に掛け直し、チケットの位置を確認する。
いよいよ軽井沢駅に到着だ。
ホームに降り立つと木々の香りに包まれる。
風は爽やかで、緑が目に眩しかった。
私達は都会を離れ、夏の避暑地にやって来たのだ。
「気持ちいい~」
紬と共に深呼吸をする。
体中で自然を感じたい気分だ。
日差しは強いが、空気はからりとして、吹く風が心地よい。
紬から聞いていたものの、こんなに良いところだとは思わなかった。
「ここまで来ると空気が全然違いますね!」
「おう!」
結翔が伸びをしながら返事をした。
駅のホームに降り立った途端、彼の表情が変わった。
水を与えた魚のように、日差しを浴びた木の芽のように、生き生きと輝いている。
自然に触れて気分が良いのか、太陽の下で開放的な気分になったのか。
こんな結翔を私は何度か見たことがある。
元旦に江ノ島に行った時だ。
あの時は、受験間際なのに、駄々をこねられ困った覚えがある。
生気に満ちた彼を見ると、私も嬉しくなってきた。
「お天気が良くてよかった!」
「だな! 荷物は向こうに届いているし、昼食の用意もしてある。一先ず目的地に行こうか?」
「そうしましょう!」
声を揃えて私と紬。
晴天の軽井沢。午前八時。
私達三人は、塔ノ森家の別荘に向かい歩き始めるのだった。
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