第2話  誘い

 八月の第二週の月曜日から、楡咲バレエ学校は夏休みに入った。

 全国コンクールに出場者しない私は、二週間バレエと離れることになる。

 コンクールを諦めた理由は二つある。

 一つ目は基礎練を見直すためだ。

 昨年末は発表会で主役を務め、二月はバレエ団の公演に出演した。

 しかも、つい先月には、小規模とはいえバレコンに参加したのだ。

 学生である私達に必要なのは、コンクールでヴァリアシオンを踊ることではなく、地道なレッスンを積み重ねることなのだ。

 

 そして、二つ目は……。


 ―― 学業の復調。


 バレエに熱が入り過ぎて、勉強が疎かになってしまい、春休みに結翔が勉強を見てくれたのだ。ポムポムでドリンクバーを注文し、問題集を解いた。春休みが勉強一色になってしまったが、思い出すだけでにまにましてしまう。

 結翔のお陰で、成績は上がりつつあるが、まだ目標には達していない。

 本来ならば、バレエを辞めさせられても不服を言えない立場だが、父の温情で

猶予期間が与えられた。


 “新学期には成績を元に戻すこと”


 父との約束を果たすために、夏休みは学業優先なのだ。


 ……でも……


 コンクール参加者たちの生き生きとした姿が目に浮かぶ。

 特別レッスンは充実したものとなるに違いない。

 鈴音に至っては、ワークショップも受講するのだ。

 それに、出場しない生徒達も、それぞれの休暇を満喫するだろう。

 私は彼女達のように、レジャーを楽しむことさえ出来ない。


(……夏が終わってしまう……)


 夏休みは終盤に差し掛かり、暦の上では既に秋なのだ。

 じりじりとした焦りが肌を刺すようだ。


(ここまでにしよう……)


 今日は十分に勉強したし、これ以上集中出来そうもない。

 そもそも、自分一人で勉強を進めることに無理はなかったのか。

 塾や予備校の夏期講習を受けるべきだったのではないか。

 今更後悔したところで、私を受け入れてくれる教室はない。

   

 ――チリリン


 スマホが鳴る。

 結翔からだ。

 

「沙羅ちゃん! 今いい?」


「……あ、……えっと……今ちょうど休憩してたところ……」


「そかっ! よかった! あのさ、明日会える? 話したいことがあるんだ」


「話ですか?」


「ああ、直接会ってしたいんだけど……」


「行きます!」


 遠慮がちな結翔に私は即答する。

 不満はもう一つあったのだ。


 ――結翔に会えないこと。


 結翔は父親の会社でバイトをしている。

 同僚が夏季休暇を取った為に、結翔の出勤が増えてしまった。

 社会人が休んだせいで、学生の結翔が忙しくなるなんて、不公平な気もするが、そんなものなのだろうか。結翔は人が好すぎるのではないか。

 せっかくの夏休みなのに会う機会が減ってしまった。

 バレエの事、勉強の事、結翔と会えないこと。

 いろいろなことが重なり、私は少し不機嫌になっていた。

 でも……明日は会えるのだ。


 翌日。

 私は待ち合わせ場所のポムポムへと向かう。

 ここで春休みに勉強をしたのだ。


「沙羅ちゃん!」


 あの日と同じだ。初めて結翔とここで待ち合わせた日。

 先に到着した彼が、座席から手を振っている。

 私は時が遡ったような錯覚を覚える。 


「急に悪かった」


「いいえ。退屈してたから……」


 結翔は遠慮しながらも、表情は明るい。

 何か素敵なことが待っている。

 そんな予感がした。

 私はアイスティを注文した後、彼が話すのを待った。


「来週なんだけど、軽井沢に行かない? 一週間」


「えっ!?」


 私が予想していたのは、映画を見に行くとか、買い物をするとか、そういった、近場で済むことだった。


 それなのに、軽井沢だなんて驚きだ。

 しかも一週間。

 だが、山と積まれたテキストが頭をちらつき離れない。


「……あ、……あの……お誘いは嬉しいけど……その……」


「だめ?」


 結翔が捨てられた子犬のように私を見る。

 ずるい。

 天使の笑顔も魅力的だが、悲しそうな顔も抗い難い。

 断るのが辛くて、私は俯いてしまった。


「……だって……その……」


「急だったからかなぁ」


「……う、うん……」


 “行きます!”と即答したい気持ちを必死で抑える。

 結翔と軽井沢に行けたらどれほど楽しいだろうか。

 断るなんて残念過ぎる。


「そっか……忙しいもんな。一緒に勉強出来たらって思ったんだけど……」

 

「……えっ?……勉強?」


 顔を上げ結翔を見ると、彼はにこにこと笑っていた。


「言っただろ? ……夏休みになったら勉強手伝うって?」


 私は天の声を聞いた。


 なんというタイミング。

 私は自分一人の勉強に限界を感じていた。

 自分の気持ちが通じたのか。あるいは結翔が予測したのか。

 いつだって、ピンチの時には現れて助けてくれる。

 彼の前世は天使だったのに違いない。

 背には羽が、頭上には白く輝く輪が見える様だ。


「一緒に働いている嘱託さんが、七月と八月の初めに休んだから、中旬は出勤したいって。で、休暇を取れることになったんだ。急に決まったから、間際に誘うことになって……」


「いっ、行きます!」


「よかった! 断られたらどうしようって思ってた……塔ノ森の別荘が、旧軽井沢にある。静かだし、空気もいい。落ち着いて勉強できるぞ!」


 春の勉強会の最後の日、結翔は夏休みに勉強を見てくれると言った。

 その約束を守ってくれるとは、なんて律儀なのだろう。

 きっと、紬が両親と行ったという別荘だ。

 喜んで返事をしたものの、冷静さがこっそり顔を出す。


(……えっと……お泊り? 結翔さんと? ……一週間?)


 “大人の男の人とお付き合いしてるのよね? お泊りとかしないの?”


 ひやかす鈴音の声が脳内で木霊こだまする。


(……ちっ、違う! 結翔さんは勉強をしようと言っているの! 考え過ぎ!)


 自分に言い聞かせるも、心は揺れるばかり。

 舞い上がり過ぎて、二人きりで別荘にいくことの意味を見失うところだった。

 いくら私でも、そのくらいのことは分かる。 


「あ、そうだ。紬も一緒だ。紬も今回数学が振るわなかったんだ」


「……え? あ、……紬ちゃんも? う、嬉しい!」


 ふみゅー!

 

 紬が一緒だと聞いてほっと安堵する。

 私の考え過ぎだった。

 だが、いつそんな日が来ても不思議ではない。

 結翔は私よりも三つ年上で、大人なのだから。

 それなのに、自分には、そういった類の心構えが全く無かったのだ。


「どうした?」


「いいえ……落ち着いて勉強出来そうですね……」


「おうっ! 勉強の合間に、散策もしよう。ご褒美みたいなもんだな……森林浴して、観光スポットも沢山あるぞ」


 給仕がアイスティを置き立ち去っていく。


「……あっ、あの……喉がからからで……そっ、外は暑くて……」

 

 逸る気持ちを抑えるように、私はグラスに手を伸ばす。


 こうして、軽井沢での勉強合宿が決まったのだった。


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