第27話 あなたのとなりに
夏休み間近。
私は成績表を手に溜息をつく。
「頑張ったのに……」
結翔との勉強の甲斐あって、成績は上がったものの、完全復帰とはいかなかった。帰宅すると父は不在で、私が起きている間には戻りそうもない。彼の机に答案用紙を残してベッドに入った。
自分は父との約束を果たせていない。道が閉ざされたような気がして、考えれば考えるほど、目が冴えてくる。えいっ! と勢いを付けて瞼を閉じれば、幼い日に見たくるみ割り人形の舞台が思い出された。
クリスマスの夜。プレゼントに目を輝かせる子供達。不格好なくるみ割り人形を譲り受ける心優しい少女。鼠の王様とおもちゃの兵隊の戦争。粉雪の舞う小径。お菓子の国の妖精達が踊るワルツ。その中でひときわ美しい金平糖の精の踊り。きらきらとしたチェレスタの音に合せ可憐に舞う姿。全てが夢のようで、私はいっぺんで夢中になってしまった。
楽しい練習の日々。覚えたステップを積み重ねて踊るダンス。初めてトゥシューズを履いた日の誇らしい気持ち。厳しくも温かい教師。励まし合う仲間達。
諦めなくちゃいけないの?
バレエは助けてくれる人がいなければ続けることは出来ない。
だからこそ、援助者との信頼関係が大切なのだ。
(……それなのに……)
私は父の譲歩を拒絶し、コンクールに出場したのだ。
約束が残っている。
目の奥が熱くなり、涙が零れそうになった時だ。
“結果が全てじゃない”
思い出されるは結翔の言葉。
“人は沙羅ちゃんの努力する姿を見ているんだ”
(……でも……)
父はひどく怒っていた。
彼が自分の考えを変えるだろうか。
だが、結翔の笑顔を思い出すと、心がほわりと温かくなる。
現状は変わっていないのに、彼を疑うことが出来なくなっていた。
うとうとと睡魔が訪れ、私はいつしか眠りに就いていた。
翌朝、食堂へ向かうと父がいた。
「おはよう」
「おはよう……パパ……」
父は言葉を選びながら話し始めた。
「見たよ……成績表」
「……」
不思議と心は静かで、父の言葉を受け入れる覚悟ができていた。
「改善はされたが、元通りというほどじゃない」
「……はい……」
「でも、努力の跡は見えた、成績の事だけじゃない……沙羅の態度だ」
「態度?」
「そう。ここ一年の沙羅は、バレエに夢中になり過ぎて、他のことが目に入らなくなっていた。熱に浮かされたみたいに。地に足が付いていなかった……それじゃだめなんだ。きっと、バレエを仕事にするにしても、当たり前のことは、当たり前に出来なくちゃいけない……でも、変わった。落ち着いたし、しっかりしてきた」
「パパ?」
心に僅かな光が灯る。
「もう少し様子を見る……来学期まで。でも、それ以上の猶予はないぞ」
(……えっと……それって……もしかしたら?)
「もう少しだけバレエを続ける時間を与える」
「あ、ありがとう! パパ!」
バレエが続けられる!
嬉しさが実感となり、じわじわと胸に迫って来た。
「来学期には成績を戻すんだぞ!」
父が険しい顔を作るも、私の心は喜びでいっぱいだった。
バレエが続けられる!
バレエが続けられる!
再び時間が与えられたのだ!
私のもう一つの日常、日曜日のスペイン語のレッスン。
サンティアゴ巡礼に備えて一緒に学んだ、竹下、飯島、坂上の三人は旅の準備も整い、もうすぐ結翔の手を離れていく。
「出発は八月です。お盆の少し前……その時期は、同業者の夏休みと重なるので、休暇が取りやすいんです」
三人の中では比較的見栄えの良い坂上が言った。
結翔は800キロを約四十日間かけて歩いたが、徒歩の場合100キロで巡礼と認められる。出国から帰国まで、二週間あれば巡礼が可能なのだ。
旅行の計画について意見がまとまらず、言い合いになることもあるようだが、楽しみにしていることは三人の顔を見ればわかる。
そして、彼等は私が一番気になることも教えてくれる。
結翔のアルバイトの件だ。
大学生になった結翔は、父親の会社で働いている。
私は結翔が席を外した隙に、こっそりと聞き出すことを試みる。
坂上の話は、私が以前結翔から聞いた話とは少し違っていた。
「最近、資料室へ出入りする社員が増えています。目的は結翔です。仕事以外に、巡礼の話題も出るようです。私達の後に続く社員がこれからも現れるでしょう」
建物の片隅にある狭い資料室。
そこから結翔は人脈を広げつつあるということか。
巡礼の道が結翔の未来に繋がっているのか。
繋がっているとすれば、どこに辿り着くのか。
私の理解には及ばぬことだ。
でも、きっと結翔には考えがある。
私は彼を信じていればいい。
「沙羅さん、お世話になりました……こうして一緒に勉強できたことを感謝しています」
礼儀正しく三人が揃って頭を下げた。
「私もご一緒出来て楽しかったです。よい巡礼になりますように……体に気を付けてください……」
三か月という短い期間だったが、彼等と共に学んだ日々は、思い出となるだろう。
七月の第三週の日曜日。
五人でのスペイン語のレッスンは最終日を迎えたのだった。
三人を見送った後、結翔が帰り支度を始める。
「駅まで送ります」
「悪いからいいよ」
「大丈夫です。十分とかからないし、まだ明るいから……」
「そか、じゃあ、お言葉に甘えるか」
結翔が先に玄関を出て、私がそれに続いた。
前を歩く結翔の後ろ姿を見ながら、100円ショップで買い物をした日が蘇る。あの日、私は彼の背中を頼もしく感じたのだ。
そんな彼の後を青年達が続こうとしている。
「……三人がいなくなると寂しくなりますね……」
「はは、大げさ! あの人達はMORIYAの社員だぜ? またすぐに会える。俺なんか職場が一緒だ」
結翔が笑う。
巡礼者は大聖堂を目指し、時には共に、時には遅れて別れながらも、道中の町で、宿で再会しながら同じ道を歩く。
旅人には目的地と地図と
“彼等は新しいリーダーを見つけたんだわ”
思い出されるは舞花の言葉。
……でも、私は……。
「結翔さん!」
急ぎ足で結翔の横に並び立つ。
「……お?」
きょとんとした彼を見て笑う私。
「ふふっ、追いついた! 一緒に歩きたくて……」
「おしっ! じゃあ、駅まで!」
「はい!」
―― 私は結翔と並んで歩きたかった。
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