第25話 夏の星座 2
「……彼女が向こう側の人間だったからです……」
「……向こう側……どういうこと?」
私の言葉に舞花がきょとんとしている。
その時、扉がノックされ、給仕が盆に椀を乗せて入って来た。
「煮物をお持ちしました。山葵をといてお召し上がりください」
舞花が礼を言うと給仕は去って行った。
「ふふっ……ここに来たらこれよね?」
待ちかねたように舞花が蓋を開ける。
私も同様だ。
少し話過ぎた。
ここで一息つくのもいいだろう。
しっかり食べて英気を養うことにした。
煮物は治部煮だ。
この店は金沢に本店があり、治部煮は金沢の郷土料理だ。小麦粉にまぶした鶏肉や鴨肉、すだれ麩、野菜をだし汁で煮た椀物だがこの店では鴨肉を使っている。程よいとろみと、だしの旨味の詰まった一品だ。しばし同席者の存在を忘れ、私は椀に集中する。
美味しい。山葵がアクセントになり味に深みが加わる。
温かく滋味深い食事に力づけられるようだ。
「どういう意味なの? 向こう側の人間って……」
料理を堪能し終えた舞花が、椀から顔を上げる。
「……それは……」
舞花は私の説明を理解出来るだろうか。
「あの時の沙羅は、私を憧れのプリマとして見ていました……自分とは別世界の人間として捉えていたのです。彼女はプリマに憧れる子供で、自分がトップに立つ心構えなど皆無でした」
沙羅の態度に私は失望し、それは怒りに変わった。
あれほど素晴らしい素養を持ちながら、それに無自覚な有様。
自分がプリマになろうなどと微塵も考えていないように見えた。
夢を見るだけで、個性を磨き、自分の世界を追求する気など、まるで感じられなかった。
だが、思い出すたびにあの時の自分に嫌気がさす。
「そうだったのね。夕舞らしい……やっぱり愛ね?」
「……そういう誤解を招く言い方は控えていただけませんか」
本当に。
人の恥を晒しておいて冗談は辞めて欲しい。
「その後、楡咲先生から、生徒達の指導をするようにと依頼を受けました。バレエ学校に入学したばかりの沙羅がいることも知りました。彼女を主役に抜擢するつもりだということも……無茶だと思いました。技術や表現力の問題ではありません。それまで彼女が在籍していたバレエ教室は、良心的ではあります。沙羅を育てた指導者ですから……でも、楡咲とはレベルが違い過ぎる。それなのに、楡咲がどうしてもと……」
「大変だったわね。でも、先生は沙羅ちゃんを埋もれさせたくなかったんだわ……」
「ですが、危険な賭けでした。楡咲の生徒達は、子供の頃から比べられ、競争に晒されてきました。その中で、いきなり主役に抜擢ですから。でも、沙羅は負けませんでした。素晴らしかった……特にウィリの役。ぎりぎりまで堪えて次のポーズに移る粘り強い動き。ピュアで自然で情緒的……沙羅が期待に応えるほど、私のハードルも高くなりました。でも、彼女は挫けなかった。あの辛抱強さには正直驚かされました」
少し話過ぎてしまった。
舞花がにまにまとしている。
「それはね……愛の力なの。彼女とっても素敵な恋をしている」
は?
何の話をしているのか。
沙羅の踊るジゼルは恋する村娘そのものだった。
だが、それが何だというのか。
愛が人を強くするというのか。
彼女らしい発想だが、愛や恋などという言葉を連発されては、聞く方が恥ずかしくなる。
それよりも、気になるのはどんな相手なのかということ。
あの年頃は恋愛の影響を受けやすい。
彼女の足を引っ張るような相手なら困りものだ。
「心配? 大丈夫! なんていうのかな……こう、二人の間に化学反応が起きてるの。相乗効果っていうのか……」
化学反応? 相乗効果?
意味不明。
理解に苦しむものの、悪い相手で無さそうなので先ずは安心だ。
だが、心配なことは他にある。
どう伝えたらよいものか。
「……穂泉さん。その、難しい年頃ですから……」
彼女が他人の恋愛に口を出すなど、不安以外の何物でもない。
「んーでも、二人ともじれったいくらい初々しいくて……背中を押してあげたくなるの!」
忠告するだけ無駄だった。
彼女はやりたいようにするし、誰も止めることはできないのだ。
「穂泉さんも、ガムザッティの指導をなさいましたね。動画を拝見しました」
「でも、しらみね賞だなんて……納得がいかない」
「あのコンクールは、完成度の高いダンサーが評価されます……沙羅は仕上がりがぎりぎりだったようですね。踊り込み不足というところでしょう」
「流石お見通しね! でも、よかったでしょ? 沙羅ちゃんのガムザッティ」
「はい、ポアント立ちが美しかった……足が強いのです。体の軸もしっかりしていて、安定感が抜群。安心して見ていられる。跳躍も高く、空中での姿勢も整っている」
「グリッサードは?」
「素晴らしかった……あそこまで完璧にこなすには、相当な自己コントロール能力が必要です。その姿がエレガントで風格さえ感じられました。一転して最後の三連続グラン・パ・ドゥ・シャで、情熱の解放を表現している。その
沙羅の踊りには不思議な魅力がある。
しっとりとピュアで情緒的。
忘れがたく心に深く残るのだ。
「あと、気がついた? 彼女、また背が伸びたの」
「はい、ますます体の線が整うでしょう。高度な技術も身に着けていきます。誰もが羨む素質の持ち主です」
それなのに無自覚。
いけない。気を付けないと……。
またイライラしてきた。
沙羅は努力家ではあるが、覇気のようなものが感じられない。
プリマはそれではやっていけないのだ。
「咲良はいいライバルだったようですね。でも、まだ足りない……沙羅には刺激が必要です」
「誰か心当たりでも?」
「いえ、特に……ですが、楡咲はそういった人材に事欠きませんから……教師陣は沙羅を指導しますが、彼女を磨くのは
「ふふっ、夕舞は愛で包んであげるのよね……」
だから。
言い方。
もう何も言うまい。
反論すれば面白がられるだけなのだ。
舞花の芸風はおっとりと優しく、女神とさえ称される。
それにしても、彼女はご都合主義のバレエの物語に、なんと
私は未だ出来ずにいる。
白鳥の湖では初対面の相手にいきなり求愛。
挙句人違いしてプロポーズ。
ジゼルは突き詰めれば二股男の物語。
バヤデールに至っては、阿片で現実逃避するのだ。
考えるほど、世界観を受け入れられなくなる。
だが、私は楡咲のバレエを愛し、憧れが止むことは無い。
夢を見ることが出来ない自分が夢の世界にいる。
まるで、反抗しながらも親離れ出来ない思春期の中学生ではないか。
自嘲気味に零れる苦笑い。
「どうかした? ……夕舞?」
「……いえ……何か飲みませんか?」
「じゃあ、焼酎にしない? いいのが置いてある。口当たりがすっきりしていて飲みやすいの」
「では、お願いします」
「飲み方は? 私は水割り……」
「……ロックで……」
グラスが運ばれ、それぞれの席に置かれた。
透明な液体の中、氷が音を立てて踊る。
「何に乾杯する?」
「そうですね……未来のライバルはどうでしょう」
「ふふっ、意味深! でも、こうして夕舞とお酒を飲めるなんて嬉しい……じゃあ、未来のライバルに!」
「……乾杯……」
――カチリ。
グラスを重ねる小さな音がした。
会食を終えた帰り道、私は再びメトロの入り口へと向かう。
穂泉舞花。
楡咲の伝統を引き継ぐ天性のプリマ。
だが、彼女は決して夢の国の住人などではない。
“彼女とっても素敵な恋をしているの”
ただ信じているだけなのだ。
――人の心と愛を。
空を見上げ星を探す。これは習慣のようなものだ。留学中も海外公演の
引け目を感じる必要などない。
私は私のダンスを踊るだけ。
母親らしき女性に手を引かれた少女が、潤んだ瞳で私を凝視している。小学校低学年というところか。幼いながらも背筋が伸び、バレエを志す者であるのがわかる。彼女は母親の陰に隠れながら、おずおずと近寄ってきた。こんな夜更けに子供を連れて歩くなどどうかと思うが、自分は楡咲の看板プリマ。ファンには相応の対応をすべきだろう。
私は笑顔を作り少女を迎えるのだった。
※夏の大三角
夏の夜空を彩ること座の1等星ベガとわし座の1等星アルタイルと、はくちょう座の1等星デネブの三つの星によって作られる三角形です。
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